身すぎ世すぎ。

映画、演劇、HELLOが3本柱の雑感×考察

ダンス オブ ヴァンパイア 12/22 感想

愛とポランスキー

視点人物、アルフレート

  • 今回、帝劇のミュージカル版をみてお話の運び、プロットが原作映画にきわめて忠実であることに驚きました。と同時に、これまでヴァンパイアもののパロディ的側面にばかり目が行き過ぎていたのか、これが若者アルフレートのビルドゥングス・ロマン(成長物語)の骨格をもっていることにいまさらながら気づかされました。「恐れ知らず」どころか、気後れしがちな純情坊や。そのアルフレート役を映画では若きポランスキー自身が演じ、一目惚れしたサラのお尻を追いかけるセルフ・パロディ的な可笑しさがあるんですが、ミュージカル版はとくにアルフレートの感情線(エモーション・ライン)が底流として効いています。旅先で村娘に魅了される、伯爵のお城に幽閉された彼女の後を追う、さて奪還作戦の行方は? と物語を要約できちゃう。わたしが観た舞台では、山崎育三郎がときに反抗したりもしつつ良きバディの教授を慕ってる、オクテで臆病なピュア・ボーイを弾むように演じていました。高橋愛のサラがまっさらな女の子から魔に魅せられし女へとひといきに駆けぬけようとするのに対し、アルフレートはじれったいほど男の子のまま。伯爵というライバルの出現にもいたって鈍感で、二重唱が五重唱へと多層化するミュージカルらしい好ナンバー「初めてだから」で初恋に夢心地な彼は、ほどなく伯爵の贈り物・赤いブーツを履いて、もっと自由な世界があるはず♪(「外は自由」)と歌い踊るサラに遠く置いてきぼりを喰らうことになります。ここは第一幕の白眉。それでもアルフレートはくさらず、尻込みしながらも救出の使命感に燃え、一途にサラを追いかけて大人のとば口に立つわけです。佳曲「外は自由」が、第二幕のクライマックスで翳りを帯びた絶唱となって回帰する。自由の刑に囚われて血にまみれるサラとアルフレートを、これもまた恋の成就のかたちと音楽が言祝ぐようにも聞こえます。悲劇ではなく、原作映画のスピリットを受け継いだ陽気なブラックユーモアが効いた、これぞウィーン発ミュージカル・コメディの感興!

サラの好きなお風呂

  • たとえば、テレンス・フィッシャー監督、クリストファー・リー主演の古典ホラー『吸血鬼ドラキュラ』を観ても、近年のウィーン版純愛ミュージカル『ドラキュラ』を観ても、ヴァンパイアが意中の女を牙で仕留めるのは、あからさまには描かれずとも寝室とまぁ相場が決まっています。ベッドの脇の窓が開いて、カーテンが夜風に揺れる演出をともなって。サラをお風呂好きに仕立てて、寝室を可愛らしくバスタブに置き換えたのはポランスキーのパロディ精神です。よく泡だったバスタブのシャボンのなかから、オードリー・ヘプバーンブリジット・バルドージュリア・ロバーツのすらりとしたナマ足が差し出されれば、映画なら甘やかなラブ・ロマンスがはじまります。『ダンス オブ ヴァンパイア』では、ここにもっと青春期のアンバランスな性的好奇心のきわどさが加わることになるのです。宿屋の亭主である父の過保護によって「カゴの鳥」状態のサラには、お風呂こそがこの世でもっとも気持ちのいい快楽装置。視覚的なモチーフは、ナマ足ではなく、はだけた背中であり、頬や肩をすべるスポンジです。「アイドル」というある意味不自由なカゴの鳥状態で保護され、そのなかで表現者として錬磨されてきた高橋愛のサラは、背中にまだ青春期の無意識の性が宿っているみたい。スポンジ使いの仕草で背中から乳房のラインが見えたりするとドギマギしてしまいます。宿のお風呂が正確にはバスタブというより、井戸のようなまるい木風呂なのもいいですね。

サラと伯爵

  • 映画では、クロロック伯爵は風呂場の高窓から瞬時に飛び降りサラを背中から襲うのですが、舞台では正面にゆったりと舞い降りてくる伯爵を、客席に背中を向けたサラが雷に打たれるように不動のまま見守ることになります。そして、放心してコケティッシュな笑みを浮かべる。ここ、ゾクッとします。アルフレートにとってサラが唯一無二の存在なのに対し、サラにとってアルフレートはたまたま目の前に現れた男の子第一号に過ぎないことがわかってきます。移り気な十代のおぼこ娘の、本人もそうと意識することのない無垢と残酷。そんな感覚が伝わってくるのも、高橋愛のサラならではです。第二幕冒頭、歴代領主の肖像画に囲まれたお城のなかで、サラと伯爵が双方、期待とおののきを胸に宿して「愛のデュエット」で呼びかけ合う。心細さから絹のように張りつめたサラ=高橋愛の歌声がもう迷わないと、舞踏会を前にした自制心に身をよじる伯爵のためらいを切り裂きながら、伯爵=山口祐一郎の甘美な憂愁の歌声に包みこまれてゆくようでもあって。

サラと高橋愛

  • 高橋愛はファンへの質問に応えて、公式ブログで今回の舞台は幸せだったけど「自分の実力のなさ」を実感した、というふうに語っていて、わたし自身その課題について思うこともありますが、彼女自身の聡明な自己認識があればもう充分です。わたしが言えるのは、ミュージカルにおいて歌は台詞の延長であり、サラを演じる高橋愛の心細さやおののき、いまだ感じ得ない夜の彼方へとおもむく迷いのなさが、役と役者の分かちがたい情動として「愛のデュエット」を震わせていたこと。ヴァンパイアたちは進んで身を投げだす者の血を極上という。サラは初恋ともつかぬ青春期の淡い想いを一足飛びに踏み越え、淑女として伯爵に極上の血を捧げるべく、赤いドレスに身を包んでらせん階段を降りてゆきます。その覚悟を決めた身のゆだね方が、サラという役への高橋愛の捨て身のアプローチと、胸がきゅんとなるほど通じあっていたこと。いや、夢が覚めればその本質はやっぱり罪のない純粋培養の村娘だってアルフレートみたいにタカをくくっていると、今度は罪つくりな魔性の女=ヴァンパイアに豹変してくれちゃう。あんな魅惑の跳躍吸血なら、牙にかかる不意打ちも悪くないと感じ入りました。

欲望、伯爵と人間たち

  • このミュージカルでは、人間たちは脇に至るまで欲にまみれていて喜劇的。ヴァンパイアを恐れてはいても、どこかヴァンパイアと似たもの同士なんですよね。宿屋の亭主シャガールなんて、「オレと同じ」で男はみな好色なろくでなしと思ってるから、娘サラが男の毒牙にかかるのが心配でならず、娘を閉じこめたがるわけで。シャガールがヴァンパイア化しても性懲りもなく、というか女房の目を気にせずに心おきなく情婦マグダを追いかけ回すのは愉快な傍系エピソードです。とりわけ、業の深いシャガールの「死」をその後の展開も知らずに悼むマグダの「死んじゃうなんて」は、マグダラのマリアを連想させる女優ジェニファーのヴァンプな持ち味、ドスの効いた嘆き節とあいまって、第一幕で異彩を放つナンバーとなりました。一方、悠久の時を生きるヴァンパイア・クロロック伯爵は、欲望が最後の神となる世界の虚しさを「永遠の相」において身に受けていて、ただひとり悲劇的です。山口祐一郎のクロロック伯爵は、ドイツ語版の伯爵みたいなヨーロッパ的退廃を担った妖艶さにはいささか欠くものの、四百年来、美しい娘たちを愛しては奪い尽してきた果てない喪失の記憶を、いま新たな生け贄たるサラを前にして振り返るナンバー「抑えがたい欲望」が素晴らしかった。ヴァンパイアなのにあまりに人間的ともいえる苦悩と宿業に身もだえた、それでいて毅然としたソロの歌のスケール感に心打たれました。こうなると、ヴァンパイアの宿命を超えた伯爵とサラの純愛だの、最終的にアルフレートとサラの若く未熟な愛が勝つだの、そんなところに落とし込むのが、大団円に向かうミュージカルの宿命か。けれど、そうならないのが、ブラックユーモアと陽気さが根っこのところで共存する『ダンス オブ ヴァンパイア』の美質だとわたしは思います。

舞い、化身と魔物たち

  • クロロック伯爵が第一幕で自身の世界観を高らかに示すように歌う「神は死んだ」のニーチェを補助線とすれば、昼の理性や精神を讃えるアポロン的な教授は、このミュージカルではいかにも無力な好々爺めいた小物。世界を跳梁するのは、本能と無意識が支配するディオニソス的な夜の魔です。伯爵のゲイっぽい息子がタクトを振って、アルフレートが悪夢にうなされるように魔界のダンスがはじまります。Feel the night .「夜を感じろ」。サラの化身、伯爵の化身として一流のダンサーに託されたその蠱惑の舞いは、棺桶という棺桶から死者たちが這い出して踊る「永遠」へと受け継がれます。ちょっと『エイリアン』のシド・ミードを思わせるネオ・ゴシック(中世的=近未来的)なセット美術に繰り広げられるダンス・アンサンブルは、おぞましいというよりどこか軽やかにして遊戯的。美しい魔物たちよ、死者たちよ、人間たちよ、底知れぬ深みを映したビロードの夜の舞踏をいましばし続けるがいい――そういう心持ちが帝劇の客席をも支配してゆくのです。ウォルター・ヒル会心作『ストリート・オブ・ファイヤー』(1984)のテーマ・ソングでもある、作曲家ジム・スタインマンのもっともポピュラーな代表曲をフィーチャーした「フィナーレ」は、もう善悪の彼岸のお祭り状態です。演劇には光のありかを指し示して世界を照らすものと、闇のありかを指し示してこれを吹き飛ばすものと2種類あって『ダンス オブ ヴァンパイア』は後者なんだ、と教授役の石川禅がいみじくも語っていました。

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*1:笹部博司さんは昨秋に観た青山真治演出、白石加代子×中島朋子主演の緊密無比な二人芝居『おやすみ、かあさん』のプロデューサーでもありました。

*2:ポランスキーは2月公開の新作『おとなのけんか』で、トニー賞受賞の一幕コメディをジョディ・フォスターケイト・ウィンスレットを迎えてみごとに映画化しています。