身すぎ世すぎ。

映画、演劇、HELLOが3本柱の雑感×考察

マリー・アントワネットに別れをつげて

  • バスチーユ陥落直後、4日間のベルサイユ宮殿の「あたふた」が、マリー・アントワネットに侍女として仕える朗読係の少女シドニーを通して描かれる。ダイアン・クルーガー演じる高慢で誇り高い王妃マリー・アントワネットがいて、王妃が寵愛するヴィルジニー・ルドワイヤンのポリニャック夫人がいて、そして王妃をひたすら慕いそばにいたいと願う侍女シドニーがいる。王妃およびその側近の斬首がうわさされる危機的状況が、このいびつな三角関係と烈しく、かつ優雅に交錯する。動揺と楽観が入り混じったその混乱を、侍従たちや侍女たちが宮殿裏手の食堂の暗がりで粗末な食事をとりながら、ネズミがちょこまか動く勝手口から覗き見するような怪しい(妖しくもある)視点が効いている。ヨーロピアン・ロココアメリカン・ポップが溶け合ったようなソフィア・コッポラ版の『マリー・アントワネット』もわたしは嫌いじゃなかったけれど、本場フレンチ流のブノワ・ジャコ版は少女的なときめきの感覚を湛えつつも、濃厚スープみたいに艶っぽい。エロティックといってもいい。
  • 思えば、朗読係の侍女シドニーはむしろ、パリの民衆の立場に近いのだ。それなのに、ひたすら王妃に片想いし献身したあげく、恋敵ポリニャック夫人の名がリストアップされた断頭台の「身代わり」を、彼女は王妃に求められる。以降の切なくもうるわしい緊迫感は、もう息を詰めてドキドキ見守るほかない。侍女シドニーを演じるのはレア・セドゥ。わたしたちにとっては、まず『ミッション:インポッシブル/ゴースト・プロトコル』の美女の殺し屋サビーヌとして、鮮烈にスクリーンに顕現した。ウディ・アレンの『ミッドナイト・イン・パリ』では、ヘミングウェイフィッツジェラルドが夜な夜な徘徊した1920年代のパリに吸い寄せられる主人公を現在につなぎとめるパリっ娘を好演した。『ルルドの泉』や『ミステリーズ 運命のリスボン』のレアも素敵。すっかりお気に入りの若手女優さんになってしまった。
  • マリー・アントワネットに別れをつげて』では、強いられた自分の運命を半ば受け入れ、半ば反抗するように、ポリニャック夫人ゆかりの若草色のドレスを身にまとう、シドニー=レア・セドゥの「着替え」シーンのスリリングなこと! 全身総毛立つくらいゾクッとさせられる。哀切と色気がみなぎっている。おそらくは悲劇へと連なるはずの馬車に乗って、王妃に愛された夫人に扮することを楽しむごとく、窓に身を寄せ、自慢げに手を振る。一世一代の晴れ姿のような倒錯性を湛えた、その佇まいのりりしさも、息をのむほど素晴らしい。

_____