身すぎ世すぎ。

映画、演劇、HELLOが3本柱の雑感×考察

レ・ミゼラブル (ミュージカル)感想

  • お正月映画の目玉の1本、映画版のミュージカル『レ・ミゼラブル』(12月21日全国公開)は面白かった。満足感があった。舞台は東宝版を一度だけ観ている。その程度のライト・ファンだ。でも、スターシステムに依存していたころの日本のミュージカル・プレイの時代気分を観客としてわたしは幾らか身に受けているから、スターに頼らず緊密なアンサンブルでみせるミュージカルが、ある水準の質を誇りながらロングラン再演を繰り返したことに大きな感懐があった。ミュージカルに対するわたしの基本姿勢は、演劇にしろ映画にしろここはよくてここはダメなんてシャラクサイこと言ってないで、でき得ればミュージカルのふところに飛び込んでその感興を余すところなく吸い尽くしたいというものだ。その全的没入をゆるしてくれるくらい懐の深い映画であったかどうか、となるとやや口ごもってしまう。口が滑ると、ダメなところにも横滑りしそう。だが、演劇がつちかってきた名場面をできるだけ壊さないように気遣い、先行舞台に敬意を払いながら、セット美術を駆使した映画ならではのスペクタクル表現や時代再現性を感じさせた。真っ当な映画だった。キャメロン・マッキントッシュがプロデュースしたミュージカル舞台はどうも映画化に向きそうにないが、これは成功作といえるのではないか。
  • ミュージカルの主流がショーダンスから歌ものになり、コメディから悲劇になって、映画とミュージカルの相性は一般的に折り合いが悪くなった。ミュージカル・アクターが広い客席の隅々にまで響かせる朗々たる歌の力が、舞台では人の心をわしづかみにしても、映画ではその鈍重な不動性が「動く画」(モーションピクチャー)としてモタないこともしばしばだ。役の心理や感情を語らずになにげない視線や仕草や佇まいで心のひだを伝える映画には、声を限りの哀調がうるさく暑苦しくきこえてしまうことも少なくない。映画版『オペラ座の怪人』などは、もろにそうだったと思う。もちろん、映画でも演出と演技の化学反応によって、歌の不動性が息をのむほどエモーショナルな名シーンを生むこともある。最近でパッと思いつくのは、ミュージカルじゃないけれど、成人しても10代のリストカット癖がぬけない『SHAME―シェイム―』のキャリー・マリガンが、高層ビルのバー・ラウンジで訥々と歌うシーンが素晴らしかった。おのが精神不安定の駆け込み寺にしてきた(どこか互いの近親相姦願望を抑圧しているふしもある)兄マイケル・ファスベンダーを前にして、生活やつれの顔に、少女が泣きはらした後のような目元が厚ぼったく浮かぶ。魅せられるようにその面立ちを凝視するカメラ。彼女が歌うジャズバラード調の「ニューヨーク・ニューヨーク」は決して巧くはないが、崩れた色香にNYの夜の孤独感がそくそくと迫ってきた。
  • トム・フーパー監督は、あらかじめ歌をスタジオで先行して録音して、その歌を現場で流しながら歌に合わせて口パクで演技する、ミュージカル映画では常套手段の「プレスコ」方式を、強い希望でやめたのだという。プレスコでもアフレコ(撮了後に歌を録る)でもなく、彼が選んだのは「同録」。芝居の渦中で発せられるナマの歌を現場で同時にライブ収録するというものだ。現場では思わぬノイズが入ったり、歌収録には向かない悪条件がある。大がかりな撮影では、歌、芝居、アンサンブルの動き、カメラワークの連動性が少しでも崩れると何度もNGが出ちゃうから、役者もスタッフも最大限の緊張を強いられる。ミュージカルでは、歌は台詞の一貫だ。歌だけに集中できる好条件での歌の巧みさよりも、役の感情のほとばしりが台詞となり歌となる、ミュージカルならではの歌の生々しさを、リスクを冒してでもトム・フーパーは生け捕りにしようとした。役者たちがその“原点回帰”を受け入れた。ある意味、舞台よりラジカルな一回性に賭けるその方針が、もっとも奏功したのがファンテーヌを演じたアン・ハサウェイだと思う。今年は『ダークナイト ライジング』のキャットウーマンも爽快なほどのハマリ役だったが、このファンテーヌ役のアン・ハサウェイはすごい!
  • とくに、名ナンバー「夢やぶれて」に至るシークェンス。いわれない誹謗によってファンテーヌは工場をクビになる。幼い娘を食わせるため、あっという間に新米の街娼に墜ちて汚れて。路傍で辱めを受け、その屈辱に抵抗して、さらに窮地に追いこまれる。めまいのような転落ぶりだ。髪を短く刈り上げ、尾羽打ち枯らしたファンテーヌの絶唱を、カメラは打ち震えるように中心をわざと外したバストアップの構図で捉え続ける。ノーメイクのまま、傷心と哀願にのた打つ心の丈を、まるで血を吐くように歌に吐きだす女優アン・ハサウェイと、正対するカメラが、魂魄の気合いで斬り合うよう。観ていて嗚咽が止まらなくなり、わたしはここで一気に身体ごとスクリーンに呪縛されてしまった。ファンテーヌ=アン・ハサウェイの汚辱にまみれた捨て身の神々しさは、マグダラのマリアを連想させた。東宝舞台版ではファンテーヌとジャン・バルジャンの間にそこはかとない恋愛感情があるようにほのめかされていたと覚えているが、記憶違いだろうか。映画版はそのあたりの関係性が薄らいで、エピローグでは、老い果てたジャン・バルジャンに母なる祝福を与えるように、霊魂として再登場する。
  • 基本的に、トム・フーパー監督はオペラのアリアみたいな名調子をこれでもかと聴かせるより、役の感情が台詞のように胸の底から滲み出てくる歌い方が好みのようだ。観るひとによってはせっかくの名曲群、もっとたっぷりとプレスコやアフレコの好条件で聴かせてほしいという方もいるかもしれない。でも、この映画版のキャスト、地の底から時代の情動が湧き立つようなヴィルトル・ユゴー発のこの題材なら、困難を承知でトム・フーパーが選択した「同録」方式が、アン・ハサウェイのファンテーヌを筆頭に、総じて正解だったとわたしは思う。【以降は、映画鑑賞後に読まれることをお勧めします】
  • 「同録」方式があまりうまくいっていないなって思った、心理を言葉でトレースしすぎる歌がところどころ、しつこく邪魔っ気に聴こえたのはラッセル・クロウのジャベールだが、みなさんはどうだろうか。トム・フーパー監督にしても、逃走するジャン・バルジャンを警視ジャベールが執拗に追う――演劇では端折れてしまうが、映画では真価を問われもするサスペンス演出はいかにも半端、これならいっそ端折ったほうがいいのでは、と思った。法=正義という道徳観が崩壊する見せ場(ここは東宝版の石川禅の印象が鮮烈)を含め、ジャベールがアンサンブル・プレイのなかで終始、浮き気味と感じた。ついでに言えば、強欲な宿屋の夫婦を演じたコミック・リリーフとしてのヘレナ・ボナム=カーターらも正直、困った。これは「同録」云々じゃなく、滑稽ながめつさをお芝居として完璧に戯画化してつくり上げてしまうことのつまらなさだ。
  • あぁ横滑りしちゃった。演技と歌を分かちがたいものとして、ライブでつかまえるやり方が功を奏したほうに立ち返ろう。コゼット(アマンダ・セイフライド)とマリウス(エディ・レッドメイン)の一目惚れ的な恋のデュエットに、マリウスへの片想いに苦しむエポニーヌが秘めやかに絡んで三重唱となる「心は愛に溢れて」。一目惚れの表現はミュージカルの独壇場だ。しかも、おずおずと互いに名乗り合い、恋がいままさに始動する門越しの相聞歌が、エポニーヌの声が加わることで、失恋を認めたくない切ない待機状態の翳りを帯びる。なんて素敵! ロンドン公演から大抜擢されたというエポニーヌ役のサマンサ・バークスは、映画女優としての華には欠けるが、片恋を狂おしくもプラトニックに昇華させる彼女の歌は迫真のものがあった。パリの石畳と雨が似合う名ナンバー「オン・マイ・オウン」も。ひとりぼっちの哀訴のなかで、ひとりでもふたりだわ♪ と愛に殉ずる覚悟を決めたような、そぼ濡れたエポニーヌを、仰角で捉えたカメラがぐーんとクレーン・アップしてゆく。その引き画にきゅーんときた。泣けた。
  • そして、舞台では第一幕のラストを飾った「ワン・デイ・モア」。バルジャン、コゼット、マリウス、エポニーヌ、さらにはアンジェルラスを筆頭に蜂起する学生たちやジャベールも加わって、ミュージカル的感興にあふれた多重唱だった。それぞれの想いを抱いてクライマックスへと雪崩を打つ映画ならではのモンタージュ手法が効果を上げていた。パリのアパルトメントの住民たちに古い家具を窓から落としてもらい、アンジェルラス率いる学生や民衆が、その家具を使って手際よく革命を期したバリケードを築城するという趣向も、映画ならでは。トム・フーパー監督は子供をナチュラルに生かすのが意外なほど上手い。「幼いコゼット」の登場シーンや森の井戸で水を汲みバルジャンと出会うシーンもよかったが、街をねぐらとする少年ガブローシュのここでの快活な生命感は目を見張るものがある。ガブローシュは、この舞台ミュージカルの生みの親たる作詞・作曲チーム、ブーブリルとシェーンベルクの下で1978年に胚胎した着想の原点ともいえる登場人物だ。誰にも頼らず、吹きっさらしに暮らしてきた生粋の浮浪児ガブローシュがいなければ、革命学生が先導するムーブメントが社会の最下層とつながっていることを、映画のなかで信じ得ることは難しいかも。
  • ガブローシュの最後は、舞台のハイライト「逆さ吊り」に敬意を払ったアンジョルラスの最後とともに悲痛を極める。本篇の白眉の一角といっていい。打ち振られ、打ち捨てられる赤とトリコロールの旗。バリケードの山で合唱されるレジスタンス・ソング「民衆の歌」の、自然発生的な高揚感こそライブ収録ならではのものだろう。ジャン・バルジャンを演じたヒュー・ジャックマンにも好感をもった。「囚人の歌」の地獄(三色旗が泥にまみれていた)から司教との出会いを経て、19世紀の石造りの街を鳥瞰するように、彼の前に世界が一気に開ける「独白」もダイナミックなカメラワーク込みで唸った。けれど、なにより「エピローグ」の、抑制の効いた老けの芝居と歌のよさがヒュー・ジャックマン最大のお手柄ではないか。バルジャンは死期を悟ってマリウスにコゼットを託し、人生の舞台から身を引くように静かな祈りの時を迎えようとする。そこにひととき、アン・ハサウェイのファンテーヌが慈母のように寄り添うのだ。エピローグは舞台版でも名場面だったが、バルジャンの遺した手紙とともに深い余韻を残し、天に召された声たちがコゼットとマリウスの明日を祝福するような映画版もまた格別だった。フルコースの満腹感のある157分。

_____