身すぎ世すぎ。

映画、演劇、HELLOが3本柱の雑感×考察

思い出のマーニー  感想&考察

◇ぼっち少女の冒険。

  • 米林宏昌監督の前作『仮りぐらしのアリエッティ』以上に清冽で創意にあふれ、リアルとファンタジーの相互交流に心を打つものがあった。なんともロマネスクなエンディングと、エンド・クレジットでの杏奈のさりげない振る舞いのダブル攻撃に、やおら涙を拭うはめとなった。スクリーン上でも試写室でも男の影は薄く、灯りが点くと、放心状態になって目を腫らし、席を立てずにいる女性が何人も見受けられた。
  • まず挙げたい米林監督の創意は、舞台設定を夏の北海道にしたことだ。むかし、夏から秋にかけて北海道の牧場に住み込みで働いた後、釧路から道東エリアを海沿いに、東へ北へと羅臼まで旅したことがある。内陸(根釧台地)の牧場で海が見られなかったから。入り江の感じが厚岸あたりの海辺町を思わせた。
  • 湿っ地という設定だから、霧多布(きりたっぷ)湿原や釧路湿原周辺までをロケーションして、どこかにありそうでどこにもない海辺町としてスケッチと印象を組み立て直したのだろうか、と思案した。後に観た番宣TVでは、霧多布湿原のそばの藻散布(もちりっぷ)沼が、参考にしたロケ地のひとつとして紹介された。
  • 杏奈(声/高月彩良)は札幌育ちの12歳。喘息持ちで、体育の時間も課外の時間もクラスメートと距離を置き、ひとりスケッチをしている。先生が覗きにくると、たいして上手じゃないからって言いたげに絵を隠そうとする。身をぎゅっと固くして鉛筆まで折ってしまう。もらわれっ子という引け目がある。両親に捨てられたという記憶はかそけきものだが、傷痕が消えずに心のなかで強迫的に繰り返される。*1 *2
  • こんなふうに、およそヒロインらしくない、超陰性のキャラクターとして杏奈は登場する。内気だけどキレやすい問題児? いや、逆に礼儀正しいいい子、というのが杏奈の問題みたい。母代わりの「おばさん」(声/松嶋菜々子)は杏奈を真っ直ぐに育てたが、極度の心配症で、その心配が杏奈には重荷なのだ。だから、しつけも守る。礼儀も守る。けれど、おばさん=養母を母として認められない。自分に向けられた情愛にも、不純なものを感じてしまう。そういう心のしこりに気づくと、杏奈はなにより自分が嫌いになる。
  • この世には見えない魔法の輪がある。決して自分はその中に入れない。それが杏奈の「疎外」の世界像だ。それだけじゃない、杏奈は自己像からも疎外されている。札幌の初夏の涼気は快適そうなのに、最初にマイナスの札を切りに切った作劇術。喘息という病は、杏奈にとって生きることの違和感のメタファーみたいに発現する。
  • 海辺の町への転地療養。養母の親戚の家へ、杏奈はひとりで旅立ってゆく。夢うつつの境界を走るような列車に揺られて。親戚夫婦が迎えに来る、おもちゃのようなバンに揺られて。崖の上には幽霊が出るとうわさのサイロがそびえている。山裾に立つ丸太造りのコテージ風一軒家からは、鈍色に輝く入り江の海がのぞめる。
  • まるで、地の果てへ連れられてゆくような心細さがある。それでいて、わが身にふさわしい地平に行きあったような解放感もある。なつかしい! と思った。このあたりの、色彩が語りかけ、形態が語りかけ、町や自然や、それらをぬう乗り物が語りかける、画面の連鎖が素晴らしい。もっとも、杏奈が生の違和感そのものから解放されるわけじゃない。この冒険心の芽生え、前のめりの危なっかしさこそが、杏奈の変化であり、新境地なのだ。
  • こっちのおばさん(声/根岸季衣)はお節介で、杏奈はそれをふくめて田舎ならではの近所づきあいをうとましく感じる。拒絶の態度をとってしまう。だが、このおばさんは心配しない。波風たってもほったらかして、おっとりとかまえてる。ほったらかされると、杏奈は意外な勁さを発揮する。台所仕事もこなすし、見慣れぬ山道を単独で歩いて養母宛のハガキを投函しに町へ出向いたりもする。

◇満潮の逢瀬の彼方。

  • 道を転げて浜へ出ると、入り江の向こう岸に石造りの洋館が見える。杏奈が札幌で書いていたスケッチ画の風景に似ている。波打ちぎわを伝って近づいてみる。誰もいない廃墟の湿っ地屋敷。気づくと、潮が満ちていて杏奈が孤立している。帰れない。入り江は親しさを残したまま寂しく恐ろしげなものにいつしか風合いを変えている。このあたりの創意、とりわけ満潮への、杏奈の冒険心や孤立感と連動した繊細な情景描写に息を呑む。
  • 手漕ぎボートがすーっとそこにやって来て、物言わぬ白鬚の釣り人が杏奈を助ける。誰も居ないはずの湿っ地屋敷の二階出窓に灯りが点いているのが見えたのは、ボート上からだったか、枕辺からだったか。「序」から「破」へ、物語が新たなポエジーの位相に転換してゆくのがわかる。ふたたびみたびの満潮の刻限、白鬚の釣り人と入れ替わるように、杏奈は湿っ地屋敷に出入りする金髪の少女マーニー(声/有村架純)と出逢うのだ。
  • マーニーは潮の干満をつかさどる月の少女を思わせる。夕暮れは宵闇となり、入り陽に代わって三日月がのぼる。その間、満潮の海は刻々表情を変える。作画監督安藤雅司美術監督種田陽平を迎えたアニメーション表現の一極致。入り江全体はひんやりと打ち沈んでいるのに、そこに入り陽を映した金の帯がきらめき、三日月を映した銀の帯がきらめく。ボート上のマーニーと杏奈を祝福するように。
  • マーニーはパーティが好き。両親が湿っ地屋敷で催すパーティが好き。杏奈は祭りが嫌い。七夕祭りで近所の同輩と出くわすだけで逃げ出したくなる。マーニーは華やかなことが好きな令嬢。杏奈は目立つことが嫌いな影法師。ふたりは対照的だ。その実、マーニーの両親は留守がちで、めったに湿っ地屋敷に寄りつかない。ふたりは似た者どうしでもある。「捨て置かれた」という感覚で繋がり、互いを求めている。
  • 寄る辺ないふたり。足元の覚束ないふたり。世界から遮断されたふたり。私を見捨てないで! 私を忘れないで! そんなふうに、ふたりは呼び交わすかのようだ。満潮のひとときを、特別な逢瀬の時間にして。でも、杏奈が疲れて居眠りするとマーニーはいなくなる。いや、マーニーと過ごすこの無二の時間そのものが夢ではないか。わたしたちもそう疑いつつ、そんなふうに考えてしまう杏奈の、愛されることへの自信のなさに胸がさわぐ。マーニーとは自分の空想のキャラクター。そう杏奈は断定しさえする。
  • けれど、杏奈のかたわらにもうひとり、湿っ地屋敷の絵を描く老婦人(声/黒木瞳)が現れる。どうやらマーニーとは旧知で、過去にいわくあるらしい。さらには、東京から引っ越してきたというお転婆少女が現れ、屋敷の新たな住人として素人探偵みたくマーニーの秘密を探る。このあたり、終局へ向けてのもうひとつの、序破急の「急」の位相転換が鮮やかなのだが、呼び交わすことこそが杏奈とマーニーの生命線、と書くに留めたい。
  • 踊れない杏奈がマーニーに導かれ、入り江の波打ちぎわでワルツを踊る。ブラームスの「愛のワルツ」にのって。当初、映画にするのは難しいとあきらめた原作をアニメーション化するにあたって、米林監督がまず原作を膨らませて夢見たイメージらしい。なんて夢見心地なシーンだろう! この映画はとくに、波打ちぎわの描き方にこだわりを感じる。足にひたひたと感じる肌触りとして伝わってくる。
  • それはリアルとファンタジーの、現実と空想の波打ちぎわだ。そして、生と死の波打ちぎわだ。名曲「愛のワルツ」は、何度もロマンティックに、メランコリックに回帰して、作中のかなめのシーンを彩る。『思い出のマーニー』は、時を超えた美しい幽霊譚といっていいだろう。自分を無条件に「受容」してくれる存在を介して、杏奈が自分と「和解」し、足元に拡がる世界を新たなまなざしで「発見」し直す物語でもある。それにしても、赤く熟れたスイカやトマトの切り口が美味しそうだった。

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*1:ここを訪れてくださった方から、「杏奈の両親は杏奈を捨てたのではなく、事故死でした」の指摘を受けました。コメントをご参照ください。

*2:5段落目、“両親に捨てられたという記憶はかそけきものだが、傷痕が消えずに”→“両親に置いてきぼりにされたという幼い頃の記憶は雲の中だが、傷痕が消えずに”としたほうがより正確かもしれません。詳しくはコメント欄をご覧ください。