身すぎ世すぎ。

映画、演劇、HELLOが3本柱の雑感×考察

TRIANGLE −トライアングル−《β》 感想

  • BS-TBS「トライアングル・ナビ」を観て、行く予定のなかったミュージカル『トライアングル』のチケットを急きょ手に入れる。αかβか迷った末、工藤遥が主役を張るバージョンらしきβを選ぶ。役者・工藤遥とは彼女の初舞台作『今がいつかになる前に』以来、偶然ながら1作も欠かさぬつきあいだから。それに、ミュージカル形式ならくらもちふさこの原案漫画に引っ張られすぎない物語解釈の自由度がありそうなβのほうがいいだろう、という目論見もあった。
  • β篇初日(6月19日)の緊張感、というより緊張それ自体がみなぎる舞台だった。SFファンタジーの設定による哀切のラブ・ロマンスというところ。光揺らめく透き通ったコバルトブルーの海底世界を思わせて、幕が開くと、そこは平和な異星アルファの王宮広場か。アサダ(工藤遥)のソロにはじまるメイン・ナンバー「トライアングル アルファ」のフレーズが、フィナーレに回帰した時、どんな心の情動をあふれさせるか――その変化のダイナミズムがこのミュージカル・プレイの醍醐味となるだろう。うら若い王女・サクラ姫(石田亜佑美)をめぐる美男子ふたり、アサダとキリ中尉(鞘師里保)のトライアングル・ラブをナビやチラシのデザインから当然のように予想していたが、βを観るかぎりでは、ひかえめながら、やがて三者を超えるほどの情感を劇にもたらす、サクラ姫の侍女ローズウッド(小田さくら)を加えた四角関係の物語というほうがピンとくる。
  • ローズウッドはひそかにアサダに恋焦がれているのだが、サクラ姫に恋心を抱くアサダはそのことに気づいていながらローズウッドを避けている。ローズウッドには実はこの星に関わる因縁があって、その秘密は観客にも終盤まで明かされず、アサダに至ってはクライマックスで恋敵・キリ中尉を通して知らされることになる。いま可能なネタバレ許容範囲を超えてしまうので、ローズウッドのことはこれ以上どうも語りづらい。でも、これだけは記しておこう。傑作だった前作『LILIUM』から、女優としての飛躍を感じさせた筆頭は小田さくらだ。一途な片恋が、その報われなさに見合うほどの「愛」の報いを得た一瞬に、デュエット・ソングと連動しつつローズウッド=小田さくらの眼からひと筋ふた筋とあふれた涙は、想う人を真っ直ぐに見るまなざしの輝きや、情意を尽くした歌の説得力とともにβの至宝だった。
    • 以降も、ぎりぎりのネタバレ許容範囲を綱渡りしつつ、ときに綱から落ちそうになってること、ご承知の上、お読みください。まだ未見で、これから観る予定がすでにある方にはおすすめしません。記憶違いも、もしあればご容赦を。
  • 「触れる」「手をつなぐ」という動作が、この劇の演出上のカギをなしている。相手に触れた瞬間、「人の心が読める」というのが戦いの星ビータから来たキリ中尉の特殊能力だ。むやみに女性の心を読まない紳士のたしなみとして、鞘師里保のキリ中尉がお相手のサクラ姫に一指も触れず、フラメンコを踊るシーンは、ストイックなキリの熱情があくまでクールに沸き立って、観ているこっちまで惚れそうになる。抑制的な姿勢を貫きながら、要所でダンサブルな抑揚をつけるキリ中尉の気風は、鞘師里保自身の芸に対するストイックな姿勢にも通じていて、観ていて心地いい。男役としてのコントロールの効いた歌もいい。ナビでは、お昼休憩時にみんなから離れてひとり弁当を食べる「ぼっちキャラ」全開の稽古場風景が映ったが、今のりほりほなら「役作りの一貫じゃけぇ」と涼しい顔で言うだろう。ひとつ悔しいのは、ナビでリハシーンをやった殺陣の場がβにはなかったこと。
  • 自分も人の心が読めることを秘密にしたまま、アサダはサクラ姫の心を読んでしまうことが怖くて、というより後ろめたくて、姫のダンスの誘いに尻込みしてしまう。そんなびびりの純情男子ぶりは、拒むスノウを強引にダンスに誘ってドギマギさせる『LILIUM』のファルスの悪漢少年風のたたずまいの対極をなすともいえる。でも、いずれも母親的な愛情で守ってあげたくなる感じは似ているのかも。自分がつくりあげた遠大な遊び場が足元から崩れてゆくファルスの自己崩壊の悲鳴に対し、アサダの叫びはせいぜいが「サクラ姫、大好きだぁ」とスワスワに向かってコミカルな大声を上げるくらい。サクラ姫しか見えなかった、そんな恋する男の子が、視界の外にあったローズウッドの愛の無償性に気づいて究極の選択をする。そういう意味で、βは工藤遥演じるアサダの成長物語でもある。
  • 一片の嫌味もないアサダの思いやりのある「いい奴」っぷりは、こんな男いねえよ! と悪態のひとつもつきたくなる、少女漫画にありがちなプリンス幻想のバリエーション、といってしまえばそうだろう。王女と結婚して権力を、なんて腹に一物があるふりを装いつつ、その実サクラ姫にも恋敵のアサダにも、戦い疲れた軍人の「一片の心」で応じるキリ中尉の偽悪的なかっこよさもそう。けれど、そんな二次元発信のキャラクターが鞘師里保工藤遥という少女の肉体に、「男」のアク抜きをした中性的な透明感を帯び、一夜の夢みたいに胚胎するさまは、なんといってもこの異星のミュージカル幻想譚のスリリングな核心だろう。
  • ラストを悲しい結末という見方もあるようだから、ひとこと触れておきたい。βを四角関係の物語として見るかぎり、四者それぞれに、そしてアルファ星にも幸(さち)をもたらす、もっとも円満な終わり方だとわたしには思えた。心に裏表がなく「心を読まれる」ことが意味をなさなかった、石田亜佑美らしい陽性のサクラ姫がたどるイバラの道――下された天命におろおろするばかりだった姫が、身を引くとみえて一味違う意志的な選択をすることをふくめ。ミュージカル的大団円のなか、成就しない初恋の圧迫感が観るものの心に、彗星のような尾を引いてたなびく。
  • 脇役としてもっとも輝いていたのは、露天商ダイスを演じた佐藤優樹! アサダやサクラ姫が「世間知らず」のお子ちゃまなのをからかい、市場にもちきりの噂でけむにまく可愛い小悪党を、嬉々として演じ、踊り、歌う。この市場のシーンには、ダイスが先導するアンサンブルにミュージカル・コメディ調の心浮き立つ気分が、集約的に炸裂している。鞘師里保がブログに「優樹ちゃんの演技好きですね〜。だれにもあの演技はできない(*^^*)」と書いていた。同感です。「うらやましがり」の裏返しとして、なんだか大好きな子を翻弄するのが、うれしくて仕方がないって感じ。市場シーンでは、高瀬くるみが好演するゴシップ好きの新聞売りとアサダの掛け合いも楽しい見どころだった。
  • β篇初日は、クライマックスの一景を見上げる姿勢で目撃しちゃうサクラ姫が、驚きのリアクションで重心が後ろに傾いた拍子にバランスを崩し、足元の階段を踏み外しそうになる小ハプニングがあった。大事に至らず、劇場から安堵の笑いが漏れたそのハプニングが、心の痛覚を射ぬかれたサクラ姫のおののき、と同時に姫を演じる石田亜佑美のおののきをも二重に反映した劇中のディテールとして、クライマックスシーンの昂ぶりを彩ってくれた。一夜かぎりの特異点みたいに。弦楽パートが生演奏であったことも特筆しておきたい。演出は吉田健、脚本は「演劇女子部」の前身である「ゲキハロ」の功労者・塩田泰造。α篇も観たくなったが、そこは自重。暇ができれば、くらもちふさこの原案漫画「α−アルファ−」を読んでみたい。池袋サンシャイン劇場にて。

プリキュアオールスターズ 春のカーニバル

  • 春の外国映画のお薦めなら、これから公開されるアカデミー賞がらみの話題作群のなかで(今年の米アカデミー賞ノミネート作はトータルに言って例年よりレベルが高かった)もっともプッシュしたい『セッション』(4月17日公開、ジャズドラマーのタマゴが名門音楽学校でしごきにしごかれる、その果ての景色よ!)から、鬼才ポール・トーマス・アンダーソンがピンチョンの小説世界に挑み、コメディ×ミステリーの様式でぶっ飛びまくるフラワームーブメント鎮魂譚『インヒアレント・ヴァイス』(4月18日公開、主演のヒッピー探偵にホワキン・フェニックス!)まで、かるーく10本くらい上がってしまいます。ウォシャウスキー姉弟のSFロマン『ジュピター』(3月28日公開)にもわくわくしました。一方、今年の春の日本映画はなかなかいいのに出会えません。とりあえず、いろいろ不満はあれど、『ソロモンの偽証』(前篇:公開中、後篇:4月11日公開)は力作です。生徒主導の校内裁判という下手に扱えば絵空事めいちゃう題材を正面から組み敷いてみせたのはりっぱ。主演の新人女優・藤野涼子(芸名も役名と同じ)の、おののきを隠した凛冽な佇まいに拍手を送っておきたい。ただし、「前篇・事件」「後篇・裁判」のふたつ合わせて、作品としては1本ですから。『ゴッドファーザー』や『エイリアン』みたいに、“Part1”だけで作品として完結するという作りにはなっていません。
  • とまぁここまでが、前説です。“プリキュア”といえば思わぬところで穴を開けた一発屋の牝の逃げ馬テイエムプリキュアしか知らないわたしが、映画『プリキュアオールスターズ』新作(3月14日公開)の試写を観たので、その覚え書きをいい加減に残しておこうというのが本題。モーニング娘。が舞台に立った完成披露試写会ではなく、東映の小さな試写室で観ました。お目当ては本篇フィナーレ後のエンディングです。アニメ×娘。×キッズダンサーのMV版「イマココカラ」に、幼児たちの「お母さんといっしょ」的なお遊戯ダンスなどが加わるから、ワンファイブの出番はさらに少なくなります。しかも、左半分にエンディング・クレジットのロールが流れるので、映像はスクリーンの右半分のスペースしかありません。大きなお友だちには一切媚びないよ、そんなことやらなくても家族客が大挙やってくるもん! という強気の姿勢がさすがにいさぎよいですね。とまれ、ここは、小田さくら鞘師里保のアカペラが「ときそら」を想起させるピアノのアルペジオと戯れ合うイントロの涼やかさが、シンフォニックな壮麗さへと拡がってゆく――そんな「イマココカラ」の醍醐味を音のいい室内空間で味わい得たこと。そして、『仔犬ダンの物語』(2002)以来の東映ハロプロのつながりがまだ切れていないことを祝しておきましょう。
  • 本篇にも少し触れておきます。恒例の映画版は歴代プリキュアのオールスター顔見世興行みたいなものなんですね。はじめて知りました。今回は、歴代メンバーのソング&ダンス集が見せ場。といっても、ディズニー・アニメみたいなミュージカル・スタイルじゃなく、招待された異星のカーニバルのステージにメンバーが次々に立つことになるんです。実はこの異星の王国、盗賊に乗っ取られていて、その危機的事態をまだプリキュアになりたての新シリーズの女の子たちが切りひらく。どんなふうに? 歌とダンスと魔法の力というほかありません。その時、劇中で歌われるのが本篇バージョンの「イマココカラ」というわけです。カーニバルを破壊されて怒る守り神の竜なんかも登場しますが、そんな物語展開よりも、羽賀朱音モーニング娘。にいざなったというTV放送時のエンディング・ダンスを映画に発展させた、モーションキャプチャーによるプリキュアCGダンスの競演こそが全篇の目玉なのだと思います。そういえば、石田亜佑美がこしらえたキャラクターをカーニバルの観客席に発見しました。

味園ユニバース 監督/山下敦弘 感想

  • 最近の邦画では珍しいオリジナル脚本の実現に向けて、関西にゆかりの才能が集結したような映画だ。舞台は大阪ミナミの表通りからちょっと外れた、千日前と堺筋の中間に当たる「ウラなんば」近辺。大阪出身のわたしにとって、なつかしくってたまらない。同時に、今の息吹きを感じる。大阪芸大出身の鬼才・山下敦弘監督はこのところどうもピンとくるものがなかったけれど、この音楽映画でひさびさに『リンダリンダリンダ』時代の好調ぶりが蘇ってきた感がある。いや、それ以上の、リアルとファンタジーの境界領域を充たす稠密さがある。
  • 主人公・茂雄は傷害事件を起こして襲撃され、記憶を失くした。でも、なぜか歌だけは覚えているという出所不明の流れ者だ。これを関ジャニ∞渋谷すばるが演じている。わたしは今までまったく興味の範疇にないタレントさんだったが、驚いたことに映画俳優にとって必須の、大画面をひといきに占有する瞬発力がそこここで炸裂していた。過去をたどればさびれた豆腐屋の跳ねっ返り息子(家出亭主?)にすぎないようなのに、まるで流刑された王族の貴種流離譚のような貴い血筋の気品と凄みすら感じさせる。
  • 煮詰まって、進退きわまったこの「過去を失くした男」を新たに「ポチ男」と名づけ、歌手として受け入れてあげるのが、大阪ミナミに小スタジオをかまえるマネージャーのカスミだ。演じる二階堂ふみは沖縄出身ながら、気骨のある「大阪の女」を自然体で呼吸していて、彼女も渋谷すばるに負けず素晴らしい。今はどうなってるか知らないが、20年ほど前、那覇の市場に旅の途上で紛れこむと、大阪の市場の混沌たる怒声と活気に通じるものが身体をしびれさせたものだ。大阪と沖縄って、どっか地続きのラテン気質のようなものがあるみたい。
  • 二階堂ふみ演じるカスミはただの小娘なんだけれど、どこの馬の骨かもわからない大阪弁でいう「あかんたれ」を仲間に受け入れてあげる。今は放心して牙を抜かれている――でも、ふとしたきっかけで何をしでかすかわからない、渋谷すばるのポチ男の荒ぶる過去を封印してあげる。思い出しそうになれば、お鍋で殴ってでもそれを阻止するというのが面白い。ひたすら破滅へと向かっていたポチ男の時間を、時の止まった記憶喪失の吹きだまりにカスミが食い止めてあげている感じなのだ。
  • 身近な音楽仲間がポチ男のことを「恋人?」とからかうのを、「しょうもなー」とかわしながら、カスミは弱小スタジオのボスとしてアウトローの音楽おじさんもポチ男も分け隔てなく包容する。はだしの似合う大阪の小娘でありながら、面倒見がよく、肝っ玉の座ったビッグ・マザーでもある。いつも車座の中心にカスミがいて、そこから少しはぐれたところに存在を消すようにポチ男がいる。でも、ひとたび音楽がはじまると、中心はメインボーカルのポチ男となる。隠れていたポチ男の牙が歌のソウルとなって鈍色に輝き出す。
  • タイトルの「味園ユニバース」は、わたしたちの世代なら大阪ミナミの映画館や深夜テレビなんかのCMで馴染みが深い「大阪千日前、みその、みその〜」の老舗キャバレーの名前だ。あの頃はふたりとも、なぜかしら世間には♪ とはじまる和田アキ子の名唱で有名な「古い日記」がポチ男=渋谷すばるの持ち歌の十八番なのだが、そう、あの頃の陽気さと淋しさの入り混じった、ケバくていびつな真珠のような昭和の華やぎを残しつつ、今のユニバースは貸しホールとして地元の名物バンドのワンマンライブを演ったりして、一周回った最先端の空間に回帰してるようだ。
  • その無国籍アジアの空気感を映画は鮮やかに伝えていて、ムード歌謡からパンクロックまでを包摂したワールドミュージック風味のごった煮ライブが、殺風景なかげりの異空間をきらびやかで猥雑な祝祭空間に変容させてしまう。映画と音楽の魔法というほかない。
  • 緻密に計算されていながら、そういう技巧を見せずに、ぐだぐだ無手勝流にやってるようにもみえる演出。地元の名物バンド「赤犬」らを交えた役者×ミュージシャンの車座アンサンブル。都市生活の厄介なこと、気難しいことをひとまず放り投げ、ほんとにひさしぶりに、映画と音楽だけが実現可能な、時の止まった吹きだまりのような祝祭的“ディープ大阪”を堪能させてもらった。(2月14日より、ヒューマントラストシネマ渋谷、新宿バルト9、TOHOシネマズ梅田ほか全国にて公開)

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深夜食堂 監督/松岡錠司  感想

  • 評判を呼んだ深夜TVドラマが3部あって全30話。監督に松岡錠司山下敦弘、脚本に監督とゆかりの真辺克彦や向井康介、さらに先輩格に当たる荒井晴彦もちょこっと加わり、撮影(いい画だなぁと思うと、撮影・近藤龍人だったり)や美術もふくめて実力のある映画屋さんが作品づくりの中枢を担っていることを感じさせてくれた。1話ごとに出来のムラはあれど、元々のドラマ自体が「映画」を感じさせる良作が少なくなかった。映画はそのスタイルを引き継ぎつつ、「めしや」の屋外としての裏路地の空間を、そこだけ時代から取り残されたエアポケットみたいにつくり込み(美術セットの精華!)、ふらっとそこに迷い込んだわたしたちを心ゆくまで憩わせてくれる。
  • ドラマでは新宿ゴールデン街の外れあたりかな、とお店の位置の見込みが立ったけれど、映画の「新宿区よもぎ町」はその猥雑レトロな雰囲気を残しながら、どこにでもありそうでもはやどこにもない懐かしい異空間の印象が強い。「ニトロな夜」「嘘」「離愁」「雨のアムステルダム」など、映画ファンの心をくすぐる店看板がぼうぅと浮かぶその濃密な夜の匂いともども、映画が終われば空間ごとふっと消えてゆきそうな儚さを湛えている。
  • 映画はプロローグとエピローグをはさんだ3話構成で、それぞれ「ナポリタン」「とろろご飯」「カレーライス」とテーマになるご馳走が絡んでくる。たとえば、「とろろご飯」篇では、多部未華子が化粧っ気を消して好演する地方出の娘みちるが「めしや」で無銭飲食をやらかす。腱鞘炎かなにかで利き腕がきかなくなった小林薫演じるマスターの助手としてお店で働くうちに、男問題を抱えた彼女の過去のいきさつが浮かび上がってくるという展開だ。で、追い詰められ行き場をなくした局面やら、嵐が去って一息ついた局面において、マスターがみちるにゆかりのとろろご飯を振る舞ってあげる。リクエストに応えたり、粋なはからいだったり――「めしや」は常連さんにしろ一見さんにしろ、そんなふうに危機に瀕した日陰者たちの、駆け込み寺みたいな安息の吹きだまりなのだ。他人の過去に深入りしないが、よき聞き役として窮地は助ける、気持ちがぐらついてるときはぴしっと叱って道筋を示唆してあげる、というマスターのスタンスが素敵。それでいて、あるいはその“素敵”ゆえに、マスターをめぐって、新橋の料亭の女将(余貴美子)とみちるが淡い三角関係をかたちづくったり……。
  • TV版が「めしや」を起点にして、1話分の主役を成すゲストの外の世界にドラマの軸が移行してゆくのに対し、映画版はマスターが取り仕切る「めしや」という室内空間の会話をあくまで主軸にして、より空間を限定した集団人情劇に仕立てようにしてるふう。片目に丹下左膳のような傷痕があり、過去にワケありそうなのに飄逸の姿勢をつらぬくマスター=小林薫の持ち味をTV版以上に生かした演出だ。店が暇なときにマスターが欄干で煙草をくゆらす外景としてのみうかがい知れたお店の二階内部に入りこんだり、謎めいたマスターの生活空間までを覗ける趣向がうれしい。
  • ナポリタン」篇に登場した高岡早紀(旦那と別れたばかりの愛人で“2号さん”という死語がぴったりくる)、柄本時生(よせばいいのに高岡に惚れてしまう安月給の新米サラリーマン)、エピローグにひょいとお店に現れる田中裕子(悲調をふくんだコメディエンヌなキーパーソン)、さらにはオダギリジョー松重豊光石研安藤玉恵宇野祥平不破万作ら馴染みのキャラクターに至るまで、ひとりひとりの役者さんに味がある。美術(原田満生)も撮影(大塚亮)ほかスタッフワークもこみで映画が集団の娯楽芸術であることを思い出させてくれる。実に丁寧に丹精込めてこしらえていて、映画自体に品がある。匂いがある。抑制の効いた情味がある。ねちねちせずに、すきっとみせる気っぷがある。
  • 佳品だった『歓喜の歌』(2008、脚本/真辺克彦とのコンビ作でもある)以来、いや、その後にわたしは未見の1本があってそれがコケたのが原因だろうか、映画が撮れない状態が続いた松岡錠司の執念の復活をなにより寿ぎたい。ふらっと立ち寄れば、ずっと長居したくなる映画です。正月1弾、2弾の日本映画の中ではこれがイチオシ! いい出汁がでています。(丸の内TOEIほか、全国東映系にて公開中、わたしは暮れに観たので、記憶違いはご容赦を)
    • TV版のことをもう少し。一条さゆりを思わせる往年の人気ストリッパー、引退してなおかくしゃくとした老女をりりぃが演じた第9話「アジの開き」篇(監督/山下敦弘、脚本/向井康介)、松重豊演じる地回りやくざと光石研演じる刑事の、青春期の哀切な因縁譚・第11話「再び赤いウインナー」篇などが秀逸でした。第15話「缶詰」篇など、このマスターは凝ったグルメ料理をこしらえるんじゃなくって、持ち込みの缶詰やラーメンなんかに一手間くわえて素朴な、懐かしい味に仕立てる名人(メニューは豚汁定食のみ、後は客のリクエストに応じてつくれるものはなんでもつくる主義)ってのがいいですね。お客さんの秘めた記憶を刺激する懐かしい味、というのが一話完結のドラマと分かちがたく交差するんです。カレイの煮付けを一日寝かせた第14話の「煮こごり」ご飯のせもすこぶる美味しそうでした。きりがないからもうやめますが、光石研篠原ゆき子の刑事迷コンビの顛末記・第29話「レバにらとにらレバ」篇(監督/松岡錠司、脚本/真辺克彦)も可笑しゅうて味わい深い。原作は安倍夜郎のコミックス。

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思い出のマーニー  感想&考察

◇ぼっち少女の冒険。

  • 米林宏昌監督の前作『仮りぐらしのアリエッティ』以上に清冽で創意にあふれ、リアルとファンタジーの相互交流に心を打つものがあった。なんともロマネスクなエンディングと、エンド・クレジットでの杏奈のさりげない振る舞いのダブル攻撃に、やおら涙を拭うはめとなった。スクリーン上でも試写室でも男の影は薄く、灯りが点くと、放心状態になって目を腫らし、席を立てずにいる女性が何人も見受けられた。
  • まず挙げたい米林監督の創意は、舞台設定を夏の北海道にしたことだ。むかし、夏から秋にかけて北海道の牧場に住み込みで働いた後、釧路から道東エリアを海沿いに、東へ北へと羅臼まで旅したことがある。内陸(根釧台地)の牧場で海が見られなかったから。入り江の感じが厚岸あたりの海辺町を思わせた。
  • 湿っ地という設定だから、霧多布(きりたっぷ)湿原や釧路湿原周辺までをロケーションして、どこかにありそうでどこにもない海辺町としてスケッチと印象を組み立て直したのだろうか、と思案した。後に観た番宣TVでは、霧多布湿原のそばの藻散布(もちりっぷ)沼が、参考にしたロケ地のひとつとして紹介された。
  • 杏奈(声/高月彩良)は札幌育ちの12歳。喘息持ちで、体育の時間も課外の時間もクラスメートと距離を置き、ひとりスケッチをしている。先生が覗きにくると、たいして上手じゃないからって言いたげに絵を隠そうとする。身をぎゅっと固くして鉛筆まで折ってしまう。もらわれっ子という引け目がある。両親に捨てられたという記憶はかそけきものだが、傷痕が消えずに心のなかで強迫的に繰り返される。*1 *2
  • こんなふうに、およそヒロインらしくない、超陰性のキャラクターとして杏奈は登場する。内気だけどキレやすい問題児? いや、逆に礼儀正しいいい子、というのが杏奈の問題みたい。母代わりの「おばさん」(声/松嶋菜々子)は杏奈を真っ直ぐに育てたが、極度の心配症で、その心配が杏奈には重荷なのだ。だから、しつけも守る。礼儀も守る。けれど、おばさん=養母を母として認められない。自分に向けられた情愛にも、不純なものを感じてしまう。そういう心のしこりに気づくと、杏奈はなにより自分が嫌いになる。
  • この世には見えない魔法の輪がある。決して自分はその中に入れない。それが杏奈の「疎外」の世界像だ。それだけじゃない、杏奈は自己像からも疎外されている。札幌の初夏の涼気は快適そうなのに、最初にマイナスの札を切りに切った作劇術。喘息という病は、杏奈にとって生きることの違和感のメタファーみたいに発現する。
  • 海辺の町への転地療養。養母の親戚の家へ、杏奈はひとりで旅立ってゆく。夢うつつの境界を走るような列車に揺られて。親戚夫婦が迎えに来る、おもちゃのようなバンに揺られて。崖の上には幽霊が出るとうわさのサイロがそびえている。山裾に立つ丸太造りのコテージ風一軒家からは、鈍色に輝く入り江の海がのぞめる。
  • まるで、地の果てへ連れられてゆくような心細さがある。それでいて、わが身にふさわしい地平に行きあったような解放感もある。なつかしい! と思った。このあたりの、色彩が語りかけ、形態が語りかけ、町や自然や、それらをぬう乗り物が語りかける、画面の連鎖が素晴らしい。もっとも、杏奈が生の違和感そのものから解放されるわけじゃない。この冒険心の芽生え、前のめりの危なっかしさこそが、杏奈の変化であり、新境地なのだ。
  • こっちのおばさん(声/根岸季衣)はお節介で、杏奈はそれをふくめて田舎ならではの近所づきあいをうとましく感じる。拒絶の態度をとってしまう。だが、このおばさんは心配しない。波風たってもほったらかして、おっとりとかまえてる。ほったらかされると、杏奈は意外な勁さを発揮する。台所仕事もこなすし、見慣れぬ山道を単独で歩いて養母宛のハガキを投函しに町へ出向いたりもする。

◇満潮の逢瀬の彼方。

  • 道を転げて浜へ出ると、入り江の向こう岸に石造りの洋館が見える。杏奈が札幌で書いていたスケッチ画の風景に似ている。波打ちぎわを伝って近づいてみる。誰もいない廃墟の湿っ地屋敷。気づくと、潮が満ちていて杏奈が孤立している。帰れない。入り江は親しさを残したまま寂しく恐ろしげなものにいつしか風合いを変えている。このあたりの創意、とりわけ満潮への、杏奈の冒険心や孤立感と連動した繊細な情景描写に息を呑む。
  • 手漕ぎボートがすーっとそこにやって来て、物言わぬ白鬚の釣り人が杏奈を助ける。誰も居ないはずの湿っ地屋敷の二階出窓に灯りが点いているのが見えたのは、ボート上からだったか、枕辺からだったか。「序」から「破」へ、物語が新たなポエジーの位相に転換してゆくのがわかる。ふたたびみたびの満潮の刻限、白鬚の釣り人と入れ替わるように、杏奈は湿っ地屋敷に出入りする金髪の少女マーニー(声/有村架純)と出逢うのだ。
  • マーニーは潮の干満をつかさどる月の少女を思わせる。夕暮れは宵闇となり、入り陽に代わって三日月がのぼる。その間、満潮の海は刻々表情を変える。作画監督安藤雅司美術監督種田陽平を迎えたアニメーション表現の一極致。入り江全体はひんやりと打ち沈んでいるのに、そこに入り陽を映した金の帯がきらめき、三日月を映した銀の帯がきらめく。ボート上のマーニーと杏奈を祝福するように。
  • マーニーはパーティが好き。両親が湿っ地屋敷で催すパーティが好き。杏奈は祭りが嫌い。七夕祭りで近所の同輩と出くわすだけで逃げ出したくなる。マーニーは華やかなことが好きな令嬢。杏奈は目立つことが嫌いな影法師。ふたりは対照的だ。その実、マーニーの両親は留守がちで、めったに湿っ地屋敷に寄りつかない。ふたりは似た者どうしでもある。「捨て置かれた」という感覚で繋がり、互いを求めている。
  • 寄る辺ないふたり。足元の覚束ないふたり。世界から遮断されたふたり。私を見捨てないで! 私を忘れないで! そんなふうに、ふたりは呼び交わすかのようだ。満潮のひとときを、特別な逢瀬の時間にして。でも、杏奈が疲れて居眠りするとマーニーはいなくなる。いや、マーニーと過ごすこの無二の時間そのものが夢ではないか。わたしたちもそう疑いつつ、そんなふうに考えてしまう杏奈の、愛されることへの自信のなさに胸がさわぐ。マーニーとは自分の空想のキャラクター。そう杏奈は断定しさえする。
  • けれど、杏奈のかたわらにもうひとり、湿っ地屋敷の絵を描く老婦人(声/黒木瞳)が現れる。どうやらマーニーとは旧知で、過去にいわくあるらしい。さらには、東京から引っ越してきたというお転婆少女が現れ、屋敷の新たな住人として素人探偵みたくマーニーの秘密を探る。このあたり、終局へ向けてのもうひとつの、序破急の「急」の位相転換が鮮やかなのだが、呼び交わすことこそが杏奈とマーニーの生命線、と書くに留めたい。
  • 踊れない杏奈がマーニーに導かれ、入り江の波打ちぎわでワルツを踊る。ブラームスの「愛のワルツ」にのって。当初、映画にするのは難しいとあきらめた原作をアニメーション化するにあたって、米林監督がまず原作を膨らませて夢見たイメージらしい。なんて夢見心地なシーンだろう! この映画はとくに、波打ちぎわの描き方にこだわりを感じる。足にひたひたと感じる肌触りとして伝わってくる。
  • それはリアルとファンタジーの、現実と空想の波打ちぎわだ。そして、生と死の波打ちぎわだ。名曲「愛のワルツ」は、何度もロマンティックに、メランコリックに回帰して、作中のかなめのシーンを彩る。『思い出のマーニー』は、時を超えた美しい幽霊譚といっていいだろう。自分を無条件に「受容」してくれる存在を介して、杏奈が自分と「和解」し、足元に拡がる世界を新たなまなざしで「発見」し直す物語でもある。それにしても、赤く熟れたスイカやトマトの切り口が美味しそうだった。

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*1:ここを訪れてくださった方から、「杏奈の両親は杏奈を捨てたのではなく、事故死でした」の指摘を受けました。コメントをご参照ください。

*2:5段落目、“両親に捨てられたという記憶はかそけきものだが、傷痕が消えずに”→“両親に置いてきぼりにされたという幼い頃の記憶は雲の中だが、傷痕が消えずに”としたほうがより正確かもしれません。詳しくはコメント欄をご覧ください。

エスケイプ・フロム・トゥモロー 感想

  • LAのディズニーランドで無許可ゲリラ撮影したロー・バジェット映画でありながら、本国アメリカで訴えられることなく、劇場公開を実現させた話題のダーク・ファンタジー。きっと、ホラー映画によくある主観ショットを多用したフェイク・ドキュメンタリー形式を、ファンタジー寄りに応用したもんだろう、くらいにわたしは思っていました。いやいや、よくあるキワモノの粗製品じゃなかった。
  • 妻がいて、幼い息子と娘がいる。家族4人での「夢の国」への日帰り旅が、家族サービスにあいつとめる若い父親にとって「悪夢」でしかないという、みんな大好きで仮に家族に対して嫌いとでも口に出そうものなら一斉攻撃を浴びそうな聖地=タブー空間への、視点移動のリアリティある着想が、あっ、やられた! と悔しくなるくらい、まずは面白いです。
  • この若い父親ジムは会社をクビになりかけて、妻にも言えないし、旅行当日もそれどころじゃありません。妻は妻で子育てにプレッシャーを感じていて、夫にまで口うるさい。ふとジムが目を放した隙に幼い娘が足を擦りむくと、信じられないという顔で彼を責めるんです。幼い息子はジムに対して反抗的で、何を考えてるのかわからない宇宙人っぽいところがあります。ときどき「光る眼」で応じる。
  • めくるめく光やスリルやキャラクターが誘惑してくる乗り物、出し物。それらに早くも「退屈」を感じはじめたジムは、本来、現実逃避の場所であるはずの「夢の国」から逃避すべく、妄想を発動させます。アトラクションのプリンセスに、あろうことか欲情するんです。お姫様キャラに、というより、それを完璧に演じて明るい笑いを振りまく、魔女のような仮面の女性に。下世話だけど、くすっと笑いたくなる発想のよさ。
  • 妻の視線を感じながら、女ふたり旅中のパリっ娘の媚態に惹かれてゆく、という妄想もあります。夜になり、園内のカフェテリアで酔っ払って妻にほとほと呆れられる、というくだりも。そんなふうに、妄想と現実が折り重なり、「夢の国」というパーフェクトに作りこまれたファンタジーの閉域が、みるみるブラックな空間へと加速的に様変わりしてゆくのです。その先は……ここでは書けません。
  • ねぇ、笑って許してくれるよね、ウォルト。あなただって偉大なる空想家じゃないか、というリスペクトこみの作り手の開き直りがあります。ディズニーは著作権にうるさいということばかりが喧伝される日本じゃ、絶対成り立たない企画でしょう。アメリカは裁判大国でありつつも、「創作における引用」にはそれなりのリスペクトをもって接してくれるみたい。引用する側、される側の相互リスペクトが企画成立の条件か。こういうところ、USAの度量を感じます。
  • 例の無許可ゲリラ撮影にしても、決して行きあたりばったりじゃない。ロケ場所や撮影方法について用意周到な準備を重ね、機動性のいいカメラの性能やテクニカルな裏づけをベースにして、その上での、無謀ともいえる思い切りのよさなんだ、と観ていて感じ取れます。
  • 驚き、感心したことを書き連ねてきましたが、うーむ、惜しいな、というところもあるんですよ。ストーリーテリングは、特に後段、「シュールな展開」で済ませられないほど強引、ちょっと下手すぎないかって。
  • なにより、ディズニー的なプリンセスに欲情して妄想が加速する、という逆手にとった発想は面白いのに、ちっともときめかない。色っぽくないんです。エロ目線が男の子っぽいのはいいとして、妄想こみの描写そのものがガキっぽい。発想は抜群にいい。ロケ効果を生かした、早撮りのモノクロームの撮影もいい。フルオーケストラによる本格的な劇伴音楽もいい。でも、大人向けの映画なのに、「演出」の感覚や技能が残念なことに子供すぎる……。
  • それにしても、なんとか完成にこぎつけたものの、はたしてこの映画は日の目を見るのか、劇場で公開できるのか、という胃がキリモミするような危機の波状攻撃はいかほどだったでしょうか。ひとまずは、その肝っ玉、瞬発力と粘り強さを讃えておきたいと思います。
  • これ有楽町の日劇を筆頭に東宝洋画系でやるんですよ! アイディア勝負の低予算映画なのに超強気です。『アナと雪の女王』というファンタジーの煌めく王道あってこその、邪道上等。「夢と魔法の国」に対する戯画的な暗黒面を浮上させるブラック・ファンタジーエスケイプ・フロム・トゥモロー』が、今年上半期のアナ雪大ヒット・ロングランの流れを受けて、今夏、興行的に化けてみせるか。日本では夏の打ち上げ花火ともならず、あえなくスルーされて消え去るか。かなり興味のあるところです。(7月19日より、TOHOシネマズ日劇ほか全国ロードショー)

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ノア 約束の舟  感想

  • 今春3月に公開されると、アメリカ、ロシア、オーストラリア、ブラジル、ドイツ、ペルーと全世界いたるところで歴代オープニング記録を塗り替え、すでに興収300億円を突破している、とは日本公開前の情報でした。キリスト教文化圏じゃない日本でも、公開16日目で興収10億円突破の報。なかなかの快挙ですね。
  • 今回のも、創世神話に新解釈をほどこして目に楽しい大スペクタクル映画に仕立てあげる、というハリウッド流のコンセプトは似たようなものでしょう。が、『天地創造』があの巨匠ジョン・ヒューストンとはいえ低迷していた頃の、旧約ダイジェスト集みたいなお仕着せの企画だったのに対し、「箱舟」に焦点をしぼったこちらは上昇気流に乗るアロノフスキーにとって、おそらく子供時代からの夢の企画。さて、それをアロノフスキーはどう料理してみせるか? が何といっても興味の的となります。
  • 設定はざっとこんな感じです。アダムとイブの楽園追放後、人間界はカインの末裔が支配する争乱の世となり、地上は罪と血に汚れてしまう。カインとは、神話的な兄弟殺しで知られる兄のほうですね。ある夜、ノア(ラッセル・クロウ)は悪夢を見て、堕ちた人間どもを地上から一掃するとのお告げを受ける。以来、箱舟造りに精を出します。
  • CGに頼らない箱舟の壮観と、そこに運ばれてくるつがいの動物たち。やがて訪れる大洪水と、生き残ったノアの家族――妻と息子ふたり、そして戦下で助けた孤児の娘――たちの、未来をめぐる確執。舟に隠れていたカイン(レイ・ウィンストン)との決戦……
  • ノアはいわば、神に「選ばれし民」なわけです。使命を果たそうと急進化し、人間が権勢をふるうバッドな世をわが子の代かぎりにしようと決意します。動物たちが野を駆け、鳥が空を舞う――神が6日をかけて造った地上の楽園をもう一度元通りにしようとして。孤児の娘が箱舟の中で息子の赤ん坊を出産すると、その孫に剣を向けようとしさえするんです。
  • このあたり、キリスト教の「原罪」観というのが強烈に迫ってきます。ある意味、すごい。数年前、患っての入院中に、こんな機会にしか読まないだろうという本を何冊か病室に持ちこみ、福永武彦訳の現代語版「古事記」(河出文庫)をベッドでつらつら読みました。
  • 日本神話では、宇宙の生成をつかさどる3体の神が高天原に現れると、「あたかもクラゲが水中を流れ流れてゆくように頼りのない」天地混沌の地上が草が芽吹くように萌え立ち、そこに神々が生まれ落ちます。イザナギイザナミ、島の神、風の神、火の神、木の神、山の神……。一神教じゃない八百万(やおろず)の神の国づくり。彼らは争い事もするし殺し合ったりもして、「人間的あまりに人間的」なところもあるけれど、きわめておおらかで「原罪」とは無縁です。
  • 子供の頃、なんの映画か題名も思い出せないけれど、荒ぶる少年神のスサノヲが酒樽を7つ用意して、八岐の大蛇(ヤマタノオロチ)を酔っ払わせてから退治するのを観て、子供心に笑いました。なんとまぁ、ずるっこいやり方するねん、って。こういう哄笑エピソードもちゃんと「古事記」にあります。今その映画を観直したら、たぶん、あまりのちゃちさのほうに笑ってしまうでしょうが。
  • 一方、『ノア 約束の舟』では、「原罪」「神の裁き」「贖罪」をめぐって、大きくドラマが転回します。原罪をおびた人間の堕落を神に代わって裁こうとするノアが善き民で、血に飢えた戦士カインが悪人? いや、わが子の希望も断つ最後の一撃に向かって、そんなふうには必ずしも割り切れなくなってくるあたりが、アロノフスキーならではのドラマ的な新機軸です。切迫感があります。
  • 創世神話を家族の感動物語に都合よく回収してしまったきらいは否めませんが、「裁き」より「赦し」の属性を帯びた女優陣のりりしさを何より好ましく感じました。父ノアに恋人を見殺しにされ、カインを舟に匿い、ひとり家族から離れて旅立つ息子ハム(ローガン・ラーマン)の傍系エピソードも効いていて、アナザー・ストーリーができそう。
  • うろこのある美しいケモノに矢が突き刺さるショットが、カイン率いる人類の残酷さをシンボライズさせて、印象に残っています。けれど、悪のはびこる地上のリアリティより、予知夢などのほうに映像として力があるのがアロノフスキー流ですね。足の裏がベトつくような、血の海。その悪夢的スペクタクルも、総じていつもよりダーク・ファンタジーの結晶度が薄めではありますが。むしろ、人類を未来につなぐ伝令役、白鳩の目にカメラが成り代わった、乾いた大地がみずみずしさを帯びてゆく映画ならではの大鳥瞰ショットのほうに力感がありました。まぁこのあたりを落としどころにするのが、ハリウッド大作の鷹揚さとも限界ともいえそうです。

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