身すぎ世すぎ。

映画、演劇、HELLOが3本柱の雑感×考察

 吉澤ひとみの「瞳」と「眸」

nicogori2007-04-25

  • 「瞳」と「眸」の訓読みは、一般にはともに「ひとみ」です。ところが、マゾヒストの恍惚を描いた谷崎潤一郎の隠れた傑作『饒太郎(じょうたろう)』を読んでいると、「眸」には「まなざし」とルビが打たれていました。谷崎は「瞳=ひとみ」と「眸=まなざし」とを自己流に(?)使い分けていたようですね。ためしに、手元の漢和辞典を引いてみると、「眸=まなざし」の訓読みはないけれど、同じ「ひとみ」でも「瞳」は「無心にみる」、「眸」は「よくみる、一心にみる」とそこに含まれた意味のニュアンスがどうやら違うようです。
  • では、吉澤ひとみの「ひとみ」は「瞳」か「眸」か? 『Hello! ヨッスィー』のロングインタビューを読むと、「よくみる」というリーダーとしての自覚、あるいは決意が、吉澤ひとみ「瞳」から「眸」へ変貌させたように思えます。けれど、2001年の第1写真集『よっすぃー。』(ミスムンのころに出たヤツ)が「瞳」の魅力だとすれば、その約2年半後に出た吉澤ひとみ復活の第2写真集『8teen』(ハロプロ系写真集のなかで飛びぬけた1冊)には、もう無心ではいられない「眸」の力が、「瞳」に混じってすでに画面を圧しはじめているよう。吉澤ひとみはリーダーになる1年前から、この世界のどこに居ればいいのとか、なんのために人前で歌い踊るのとか、ひとつひとつ自問しながら「一心にみる」ことをとおし、「眸」になってリーダーとしての準備をそうと自覚せぬままはじめていたんではないでしょうか。
  • 「ごめん」「ありがとう」――単純だけど大事なひとことを発しようとしてためらう一瞬をとらえたような吉澤ひとみ(掲載写真)が、『Hello! ヨッスィー』のカバーを外すとオモテ表紙に出現します。哀しげであり、苦しげであり、それでいて、寂寞から充溢へとひと吹きで到達する風のような自在感をたたえていて。自分の無我無心を一心にまなざし、探っているような「瞳」と「眸」のハーモニー! それがひとみさんのいまの境地でしょうか。そういえば、彼女の抽象画には「ひとみ」のモチーフが現れることが少なくなく、そこには火焔のようにアグレッシブな赤の「眸」と、湖の底のように秘めやかな青の「瞳」が、音もなく響きあっていたりするんですよ。

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