身すぎ世すぎ。

映画、演劇、HELLOが3本柱の雑感×考察

後藤真希TOUR2007 10・13夜(松戸)

  • シークレット・ライブや韓国でのライブを含めてちょうど200回目のソロ・ライブ記念ということで、円形のビジョンに「祝」の字が浮かび、ごっちんはご機嫌で「いろんなことをやってきたよねぇ」って語ってくれた。ブランコに乗ったり、自転車をこいだり、縄で降りたり。そう、17歳でソロのライブを始めたときは、松浦亜弥ちゃん、藤本美貴ちゃん、ごまっとうのふたりはもうソロでやってたんだけど、私にできるかなって不安だった。それがステージに出て一度目ソデにはけたときから、もう楽しいっ! ってなっちゃって。最初はMCもね……フフフッ。と、当時のファンの最大の気がかりもお見通しというふうに、ごっちんはイタズラっぽく笑ってみせる。200回すべて来てくれたひといるかなぁ。いちおう聞いてみる? ひとりいれば、タモさん人形もらえるね! さすがの猛者たちもこれには手を挙げられず、ごめん、気持ちだけは言ってたよぉ〜、と負け惜しみの声を上げるしかない。私はぜーんぶ行ってるけどね! と、すかさずごっちんはたたみかける。可愛い悪魔の仕打ちに一同、惚けた顔のまま、ぐうの音も出ず。
  • 以下は、前回の感想文の補足。1曲目の「シークレット」。いつか・どこかの映像はモノクロームのアップショットで、いま・ここの斜め横からの映像はセピアトーンのウェストショット。いいなぁ。このルーズ気味のウェストショットというのは、手の表情や腰つきのニュアンスがわかるギリギリの寄り方で、ハリウッド黄金期のミュージカル映画などの職人監督は、このサイズの使い方がとても巧かった。フランスのヌーヴェルヴァーグの連中が「アメリカン・ショット」と呼んで讃えたほどだ。いまTVの音楽番組でもPVでも、ウェストショットという概念が失われたのか、なんでもアップで寄りすぎちゃって、しかも不必要にカットを割り、せっかくのパフォーマンスをだいなしにすることが多い。「シークレット」の色味を落とした多元空間は、ほんとに素晴らしいと思う。
  • 3曲目サムボ、みだらさが聖なるものと響きあう「供犠」へと思わず連想がいったのは、2曲目「How to use Lonliness」でごっちんが4人のダンサーに捕らえられ、高く掲げられ、磔刑場に連れられるような悲劇的イメージからつながっていたことに気づく。アタマ3曲の流れは、「愛と孤独のせめぎ合い」とでもいうのがいいか、今回のツアーの通奏低音を感動的に指し示している。オーラスは大阪公演から「スクランブル」に変更となった。ごっちんにもファンにも大切な曲だし、爽快に盛り上がって終わるにはこの方がいいのだろうが、密かなテーマに一貫性をもたせるには、また最後の「余韻」の趣向にスムーズにつなげるには、「愛のバカやろう」のほうがいいとわたしは思うのだが……。*1
  • 緊張度の高いソング&ダンスの合間合間、「DAYBREAK」「WOW素敵!」「Hips Don't Lie」などのリラックス系パフォーマンスも、ショウとしてのメリハリがあってとてもいい。ワルツに乗って演じられる男性ダンサー2人の道化の幕間芸は、ツアーを重ねてみんなその楽しみ方を覚えてきた模様。ずいぶん、受けがよくなっていた。ここから、一幕の「うたかたの夢」が往時の王宮を舞台にはじまるますよ、って感じ。気がきいているし、わくわくする。この「エキゾなDISCO」の参照項は、某サイトさんが鋭く指摘されていたように『マリー・アントワネット』ですね。バロックでゴージャスな『ベルばら』ではなく、ロココでポップなソフィア・コッポラ版『マリー・アントワネット』。ちなみに、14歳の小娘にして異国からひとりぼっちで王宮に投げ出されたマリー役は、いささかトウの立ちすぎたキルスティン・ダンストより、13歳で芸能界に投げ出され、破竹のティーンエイジャー時代の面影をいまだ宿した下町のエキゾチック・ビューティ後藤真希の方がはるかに似合うだろう。
  • 青、紫、青緑といった寒色系の照明をベースに、要所要所で血のような、炎熱のような赤が現れる。円形のビジョンも時に太陽を連想させる。「太陽といっしょになって消えた海」。それがこのライブのごっちんのラスト・イメージだ。ティーンエイジャーの詩人ランボーは往時、その大いなる融合に「永遠」を見いだしている。

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*1:昼公演はアンコールあけが「盛り上がるしかないでしょ!」→「GIVE ME LOVE」→「愛のバカやろう」だったらしい。終わり方をまだいろいろ模索してるんですね。果たしてツアー・ラストの大宮はどうなるか? 封印している「LIFE」は歌うのか? 行きたい! 行けるだろうか。