身すぎ世すぎ。

映画、演劇、HELLOが3本柱の雑感×考察

後藤真希TOUR2007 9/16夜(座間)

  • ごっちんというと、4期の加入時に自分が隅っこに追いやられる不安を抱いたのだろうか、何度もやめようと思ったけど今はあの頃(14歳の誕生日をはさんだドトーの日々)に戻りたいって「ASAYAN」でつぶやいたことや、15歳の誕生日に、もう人生の半分を生きた気がすると「プッチモニダイバー」でノタマって圭ちゃんを唖然とさせたことが、いまだに胸に刻みついている。命をすり減らして生き急いでいたあの思春の時代からずいぶん時が経ち、んぁ〜今日もおねむだぽの持ち味も脂がのってきたが、いつもはノホホン一辺倒のブログなんかで、考え込んでも答のでない考え事を最近よくする、そのたびに自分てよくわかんないヤツって思うだの、大事なライブ前なのに最近夜になると頭痛が……なんて言葉がそこに紛れていたりするとハッとして、あぁそうだ、ごっちんは今のほうがさらにさらに命をすり減らして歌い踊ってるもんねぇって、にわかに胸が苦しくなってくる。
  • というのも、G-Emotion2を観て以来*1 ごっちんのことが頭から消えないからで、「SOME BOYS TOUCH」の悶絶パフォーマンスもハロコンなどで今まで観てきたまがいの匂いが消えて、まるでヤイバの上に背中をのせて踊っているような感じだった。ごっちんのダンスはそれがどんなにフェティッシュなものであっても、純でいさぎよい気品がそこはかとなく漂うのだが、ここには供犠に際するような目線の靱さと存在の寄るべなさが、なまめかしい疾風となって吹きつのっていた。G-Emotion2というからには、昨年秋のツアーを踏まえてのものなのだが、昨年とは舞台演出の姿勢が決定的に違う。*2 イリュージョンという邪道のショウ形態をあえてカラメ手から押し出した昨年に比して、今年はショウガール・後藤真希の本気度を真正面から見せきることに徹した王道の演出なのだ。
  • その演出姿勢と後藤真希のパフォーマンスの融合に、わたしは1曲目の「シークレット」からわしづかみにされた。紗幕に映されたごっちんの歌姿がモノトーンでまず現れる。その紗幕の向こうに実在のごっちんが白のドレス姿で浮かび上がる。2階前方から観るわたしの眼には透明な紗幕が感知できず、まるで平面的なホログラフみたい。近い過去にどこかで撮られたごっちんと、いままさに舞台横から撮られているごっちんのプロフィール(横顔)が前景に大きく現れては消え、それに呼応するごとく後景で舞台を踏みしめているごっちんは幻めいた透明感を湛えている。そういう多元的な空間にごっちんのアンニュイな歌声が吐息のように広がり出すのだ。やってることはイリュージョンよりはるかに単純なのに、「いつかどこか」のごっちんと「今ここ」のごっちんが、ともどもに心の秘密を観客ひとりひとりに向けて差し出してくるような。早くも涙が止まらなくなってしまう。
  • 「シークレット」のヒロインは孤独を乗り越えて愛し合うのか。愛し合ってもなお孤独なのか。2曲目の初聴きのアルバム曲*3「How to use Lonliness」がまた、タイトル映像の使い方→4人のダンサー登場→ごっちん再登場→帽子のショウ的な使い方→ごっちんとダンサーのからみ方が「孤独の使い方」という歌の心象と響きあってクール&エモーショナル、結局わたしは3曲目のサムボまで暗闇にまぎれて泣きっぱなしだった。田中れいな風に「なんでこんなとこで泣きようと?」と自らに問いかけても、私的な理由、公的な理由すべては後づけの言葉で、実のところ答えようがない。ただ、ごっちんの今のライブを、会場全体が火の玉と化した1年目・2年目のソロ・コンの記憶から「ノリのよさ」という価値基準で選別・排除するなら、それはとても不幸なことだ。クラシックにはクラシックのノリがあり、ジャズにはジャズのノリがあり、テクノにはテクノのノリがある。いまのごっちん・コンは「みんなといっしょ」のノリだけではなく、私固有のノリをジャンルをまたいで発見してゆく場だと思う。
  • 今回のGツー*4 は遠い王宮の歴史、ショウの歴史、「溢れちゃう…BE IN LOVE」や「愛のバカやろう」進化形にみる後藤真希の歴史といった「歴史」との接合、そのショウアップ化という隠しテーマがあるのではないか。ふたりの男性ダンサーが道化に扮して踊るのは昔のショウによくあった幕間芸で、老いた黒人エンターティナーが観客とコール&レスポンスしながらタップを踊る幕間芸をわたしはかつて博品館で観たことがある。それは本編を食ってしまうほど受けがよく味のある芸だったが、もちろん若い男性ダンサーのおどけた芸にそういう面白みは望めない。けれど、後藤真希を眼と耳で体感するライブに、ショウが営々とつちかってきた形態を取りこもうとする心意気は買ってあげたい。その道化の幕間芸に連なる、「エキゾなDISCO」をフィーチャーしたごっちんの王宮風コスチューム・プレイはGツーライブの白眉となっている。
  • 無邪気でやんちゃだった13歳の晴天娘が、政略結婚によって突然王宮に投げこまれ、華やかながら儀礼づくし、退屈すれすれの宮廷生活に孤独を募らせた数年後、DISCOな若やぎを求めて気まぐれの時を舞う。そんな感じ。薄桃色のゴージャスな王宮モードに羽根扇をかざし、アダルトな色香にいたずらっぽい笑みを覗かせるここでのごっちんは至純のダンシング・アクトレスだ。幼い頃、生家の八畳間に宮廷貴族風ドレスに身を包んだ陶器製の旧い人形が飾ってあって、真夜中、二段ベッドの上から月明かりを白く反射させたそれを見ているといまにも動き出しそうで怖かったが、ごっちんにも密かに命を得た陶器の人形みたいな人間離れした風情と色気があった。
  • ステージは、都市の乾いた風が似合うスウィンギーなジャズにオールド・ブロードウェイ・スタイルの脚線美ダンスを掛け合わせた「DAYBREAK」に一転する。そういう振り幅がショウとしての厚みをなして素晴らしい。その後、バッキンガム宮殿あたりの近衛兵が反逆した未来志向の儀式とでもいえばいいか、圧巻パフォーマンス「LOVE LIKE CRAZY」に姿を変えつつ、王宮ノルタルジーのポップな新解釈はクレイジーに加速するのだ。青いスモークのなか、ソファで居眠りする姿勢の「孤影」を鮮やかに残して消える終幕の余韻ともそれは照応している。狂熱と浄化。夢と覚醒。妖気と純情。バタイユなら「存在の孤立を、深い連続性の感覚へ置き換える」エロティシズムの本源について、きっと語りたくなるだろう。そのショウ空間の中心に、RYONRYON先生を含めてプロのダンサーを本気にさせるショウガール・後藤真希が居た。ごっちんいわく「21歳最後のライブ」だった。

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*1:雲は高く秋色になびいているのに、まだ暑気の去らない日曜だった。

*2:男2人女2人のダンサーの一角をつとめるRYONRYON先生によると、気心の知れたスタッフはほぼ昨年通りだが、演出家さんのみ変わったという。

*3:まだアルバムが発売される前のステージだった。

*4:G-EMOTION2を略してジーツーとごっちんは呼んでいた。