身すぎ世すぎ。

映画、演劇、HELLOが3本柱の雑感×考察

東京少女 真野恵里菜 第一話 2/7

『10才のあたし』(BS-i)監督:佐々木浩久 脚本:中江有里

  • ラストは「余韻を持って」「静かに終わりたい」、でもテーマ曲がアップテンポだと「演出意図とはかけ離れてたものになる恐れがある」、と佐々木監督はブログ《万事快調》に書かれていて、監督の自由がきかないシリーズのテーマ曲があるのかな、なんて余計な心配をしていた。けれど、あぁ、そういうことだったのか、って驚きとめまいが同時にやってきて、続いて、よかったね、って安堵感が尾を引くような、みごとな着地の仕方だったと思う。演出に奇をてらったりしない、さりげなく静かなやり方で。
  • 「今回のお話は、10才の泉恵里菜が、17才になってしまう! という不思議なお話でした」とは、真野ちゃんのブログの言葉。壁に貼られた幼少期の絵からカメラが右にパンするにつれて、10才の恵里菜がドアの向こうから現れ、まぁだだよ、の声とともに、上手のクローゼットに隠れる。同じカットのままクローゼットが開くと17才の恵里菜に入れ替わっている、というふうにドラマははじまる。ある朝のできごと。単純にして幻惑的な、映画みたいな導入部だ。たしかに、タイムスリップの趣向自体にはなんの新味もない。でも、10才の心と17才の体をもった泉恵里菜の出現という設定はうまい、と思った。
  • 「第二次性徴とか思春期とか、あんなめんどくさいもん、すっ飛ばして早く大人になりたかった、私は」と17才の友達・りさは言う。恵里菜にしてみれば、体は7つ分大きくなったのに、心は子供のまま胸元に置き残してしまった。そのむずかゆい「空っぽの風船みたい」な違和感が、まず真野恵里菜の演じどころとなる。熊のぬいぐるみを片腕に抱きながら頬を寄せ、ソファにもたれて物思わしげに自分の心に問いかける――そのとき白い光に溶けたひと気のない窓外から、ふと子供の歓声が小さく聞こえてくるシーンなんて、意識と体のアンバランスにハッとするようなリアリティがある。大人の入り口に立っても、12才だったり13才だったり、心は思春期前のデビュー当時のまま、胸元に置き残してしまった、という“症状”は、後藤真希辻希美田中れいな他、歴代のハロプロモーニング娘。メンバーが訴えてきたことだ。ひとあし先にアイドル時代を過ごした脚本家・中江有里の実感でもあるのかもしれない。実は、そこに観るものをミスリードする詐術も隠されているのだが。
  • 夕暮れの光のなか、初めてのデートから帰宅した恵里菜は、先に帰っていたパパとリビングでふたりきりになる。さて、ここからドラマの終盤は3段がまえに空気が変化する。パパは恵里菜の首に巻かれたマフラーを目に留める。「男物か?」。窓の西日がかげり、部屋がほの暗くなる。絶句し、絶句する自分を不思議に思う恵里菜。タケシをめぐって父娘の間にひと騒動あるのか。と思わせて、ドラマが注意深く隠していたもうひとつの気がかりが恵里菜の意識に浮上する。部屋の翳りと灯り、鏡の使い方、ゆるやかなカメラワークによる長回し。たっぷり繊細な演出と、17才のほの暗い情動の流れをこれみよがしな芝居によってではなく、あくまで自然体で伝える女優・真野恵里菜との、相性抜群のコラボレーション。
  • 【ここから先は、ドラマのオチに具体的に触れるネタバレをしています。これから観ようという方は、読まないことを勧めます。】
  • 恵里菜がパパと交わした遊園地の約束、それは恵里菜10才のときの約束だから父親は当然忘れている。そこで恵里菜は再提案する。パパとママとタケシの4人で行こうと。「それは無理だよ」と父親が切り返す。タケシが問題なんじゃない。決定的なのはパパとママの関係……。パパから視線をそらす不安げな恵里菜の横顔。場面が切り替わる。10才の恵里菜がドアの向こうから現れ、クローゼットに隠れるというファーストシーンが視点と色合いを変えて反復される。クローゼットのなかで膝を抱える10才の恵里菜。夫婦のいさかいが聞こえてくる。「子どもの頃、パパとママがケンカをはじめると、クローゼットのなかに隠れて耳をふさいでいた」とナレーションが入る。17才の恵里菜の視点によるナレーションだ。えっ?! 視点移動がもたらすめまい。これは10才の恵里菜が17才にタイムワープしたというファンタジーではなかったみたい。思い込みのネガ・ポジを逆転すると……両親の不仲が決定的になるのを受け入れられず、家族で遊園地の約束を交わした最後の年齢に、17才の恵里菜が心だけ退行してしまった、その1日のお話ということになるのだろう。
  • 恵里菜の初デート・シークェンスは相手役が舌足らずなしゃべり方をするイケメン優男だったので、いささかこそばゆい。が、ブランコとマフラーという見逃せないアイテムがそこに使われている。ジャン・ルノワール監督の『ピクニック』ではジョルジュ・バタイユの娘シルヴィアが恋の予感に震えながら光さざめく郊外でブランコをこぎ、黒澤明監督の『生きる』では初老の志村喬が「命短し恋せよ乙女」と唄いながら雪の公園でブランコをこいだように、映画にあってブランコは“はかない生の謳歌”の装置となってきた。ここでも、ブランコの恵里菜は“心は10才”ならではの大胆な無邪気さで、17才のタケシを魅了してしまう。「10才に戻りたぁい」という恵里菜の願望も「このまま17才でいたい」との間で揺れはじめる。恵里菜が17才のいまを受け入れる気持ちの芽生えを、ブランコとマフラーが媒介している。
  • マフラーの名シーンといえば、ロベール・ブレッソンの『白夜』を思いだす。恋人と再会できず、ポン・ヌフの橋から身を投げようとした娘を画学生が引き留め、傷心の幾夜かをつき添ううち、娘の気持ちがふっと彼になびく。満月が浮かぶなか、贈り物のマフラーを彼は娘の首に巻いてあげる。画学生のつかの間の有頂天は、娘が待っていた恋人の出現によってあっけなく破られるのだが、この恋の経験によって、彼のモノトーンの画風に鮮やかな色が加わる、という素敵な終わり方だった。くしくも、17才のあたしとして目覚めた翌朝の恵里菜の部屋着は、モノトーンの袖口に鮮やかな虹色が加わっていた。恵里菜は空っぽのクローゼットに向かって微笑みかける。「さよなら10才のあたし」って。甘い感傷はない。ただ、17才の小さな決意を、澄みわたった朝の光がつつむよう。

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