身すぎ世すぎ。

映画、演劇、HELLOが3本柱の雑感×考察

東京少女 真野恵里菜 第四話 2/28

『やさしい拳』 監督:古厩智之  脚本:大堀こういち

  • 第一話、二話、三話と、映画志向の若い(あるいは中堅の)つくり手のエチュードの側面をいくらかもちながら、「女優発見のドラマ」の至上命題として未知の新人がもつ天賦の燦めきを壊さずに増幅させよう(これが難しいのだ)、というプロ意識とスキルをそれぞれが感じさせてくれた。ナマ身の恵里菜と役の恵里菜がクロスしたりズレたりするシチュエーションのなかで。作品の出来に凹凸はあるものの、そこがいちばんうれしかった。チーム・アンドリウと言えばいいのか、真野恵里菜の大抜擢のみならず、有名・無名にかかわりなく、こういう才と意欲あるスタッフを揃えてみせるプロデュースワークにも感謝したい。不明にも知らなかった堀江慶という監督の名は、ちゃんと覚えておこう。さて、最終話となる第四話は?
  • 永代橋をバックにした隅田川東岸のテラス。そこに憩うユリカモメの群れを入れこみつつカメラがゆるやかにズーム・インすると、シャドウボクシングをしながらこちら側に早歩きする宮本恵里菜がフル・フィギュアで視界におさまる。恵里菜の目の前、路上のカモメたちが画面をナナメによぎって水の上へ飛びたつタイミングが抜群で、ロケ現場はカットの声とともにきっと快哉の声が上がっただろう。「――声横たふや 水の上」と芭蕉がこの川べりで詠んだ上(かみ)の句は、冬の「ユリカモメ」ではなく夏の「ほととぎす」だっけ。取りだした携帯に話す声は、鳥の求愛の声と違って怒りに震え、ポニーテイルに結んだ髪は大きく揺れている。今日3時にひとりで来い、って恵里菜はぞんざいな口調で約束を取りつける。約束の相手はだれか? 怒りの元はなにか? は続く回想シーンによってすぐに明かされる。つきあっていたボーイフレンドに二股をかけられ、その片方が恵里菜の親友だったというベタな事態。あいつ「ぶっころす」。バックの川面をぼかして恵里菜の感情に絞りこむようなパン・フォロー。
  • このドラマは、終始川べりに展開する。別れた父に会いに行こうとする男の子が恵里菜を道中に巻きこむ、その父親の会社も川べりという設定だ。川べりの風景にはいろんな橋が写りこむ。吾妻橋、駒形橋、永代橋中央大橋といったところかな。それらは現実の位置関係とは別に、フィクションの空間に統合される。カメラが川上向きから川下向きへ、同じシーンでどんでんに切り返されると、わたしの記憶違いでなければ現実ではあり得ない風景が現れたりもする。ところで、ドラマ内容をみるかぎり、川べりや橋をロケーションにする必然性はまるでない。おそらく、川べりや橋のほとりという空間設定が今回、この脚本を渡された古厩智之監督の唯一パーソナルなこだわりだったのではないか。
  • わたしにとってこのドラマが興味をつないでくれる結びの糸は、わたしの日常とも隣り合わせの(隅田川のテラスは散歩コースです)ひとつの虚構空間に、「川の女」として恵里菜をとらえてみせたことに尽きてしまう。川べりや橋の上を弟みたいな男の子と追いかけっこしたり、引っ張りあったりするのが似合う少女。男の子の小さなウソに振り回され、むかっ腹をたてていた恵里菜がずんずん先を行く彼が橋の下ですっ転びそうになるのを、後ろから駆けてきて思わず「大丈夫?」と声をかける。そのハプニング(真野ブログに逸話あり)を花壇入れこみの引きでとらえたショットなんて、物語とは関係なく、ちょっと寄る辺ない流れ者どうしのバディ・ムービーを観ているような良さがある。
  • たぶん、このドラマを観ただけなら信じてもらえないだろうが、古厩智之監督はいまの日本映画界のなかで10指、あるいは5本の指にも入るかという青春映画の旗手といっていい。鳴り物入りだった『ホームレス中学生』の低調さを例外として、フィルモグラフィはみな佳作揃い。長澤まさみの出演映画でなにを選ぶと問われれば、まだ彼女が無名時代の『ロボコン』をまず挙げたくなるし、セーラー服で走る姿がりりしい女優として『奈緒子』では陸上部出身の上野樹里が生かされ、それがゴールシーンに沸騰した。丹羽多聞アンドリウ・プロデュースものなら、世間的にヌードばかりがクローズアップされてしまったけれど、星野真里主演のポスト青春映画『さよならみどりちゃん』の作品力を見落とすわけにはいかない。*1 まぁわたしが古厩監督に「川」や「橋」を連想するのは、いまのところベスト監督作(兼脚本)といえる『まぶだち』があるからで、これは生死のきわきわをさすらう三人組の青春バディ・ムービーとして鮮烈に記憶に残っている。
  • それにしても、空手少女の紺野あさ美佐保明梨ならまだしも、ボクシング好きの「なぐる女」をレッスン期間もなく真野恵里菜にあてがうのはあまりにも無理がある。しかも、古厩監督は「かたち」で見せるほど器用じゃなく、リアルに攻めて攻めぬいて、そのかたちにならないものから青春の抒情を掬いとろうとする作風なのだ。少数精鋭のスタッフとキャストで合宿するみたいにロケをして、自分を追いこみ、演じ手も追いこんでゆく演出を本領とするひと。おまけに、物語はたいした肉づけもなく容易ならざる展開をみせる。二股をかけた軟弱男を「なぐる」という少女の小さな復讐劇が、DV癖のある父親が「なぐる」ことに心を痛める男の子の眼を介し、くるっと向きを変える、といったふうに。結果は……語るまい。脚本・演出・演技を云々するより、これはやはり、題材選択に関して全体を見通し調整するプロデュースワークの問題じゃないでしょうか。もちろん、映画だと寡作になりがちな古厩監督については、与えられた題材をウェルメイドにこなすタイプじゃないのを承知で、作風の幅を広げるよう機会を提供しているとは思うのですが。

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*1:さよならみどりちゃん』はDVDでじわじわブレークしたみたいだが、そのほかにもBS-iドラマから派生した丹羽多聞アンドリウ・プロデュースの映画には、埋もれさせておくには惜しい佳品がある。廣木隆一監督のもと水橋貴己芳賀優里亜が競演した『恋する日曜日』とか、監督が同じく廣木隆一堀北真希が主演した『恋する日曜日 私。恋した』とか。