身すぎ世すぎ。

映画、演劇、HELLOが3本柱の雑感×考察

オペラ・ド・マランドロ 考察〈急〉

MAX「発展なんかいらねぇ」 LU「もう時が来たのよ!」

  • 『オペラ・ド・マランドロ』は『三文オペラ』より人物関係もかなりすっきりと整理されている。その最大の異動は、『三文オペラ』ではほとんど絡むことのなかったルー(=ポリー)とマルゴ(=ジェニー)をマックス(=メッキ)をはさんだ三角関係にしたこと。そして、ふたりの対決を物語の軸と鋭く交叉させたことだ。*1 またもやマックスの甘言にほだされる恋するマルゴ=マルシアの性懲りのなさに、「約束の言葉」の熱唱ともども観客は感情移入している。そこにのこのこルーがやってくる。マルゴとの初対面。相手は百戦錬磨、酸いも甘いも噛み分けている。この圧倒的不利の状況から、若妻ルーが言葉で渡りあう。私が相手ならマックスがいかにベッドで乱れるか、という閨房自慢にはじまって、経験のない勘違い女ねぇ若さを失ったカサカサ女ねぇ、なによ貧乳なによ垂れ乳! みたく、その丁々発止の掛け合いが歌となるのだ。
  • 萩田浩一の演出は宝塚出身らしく緻密に計算されていて、こういう掛け合いでも、演じ手の所作や台詞回し、間(ま)がひとつひとつ端正な印象を受ける。掴み合いのケンカすら洗練されている。ルーにもマルゴにも発止と相手を睨(ね)めつける内なる炎があるから、それが生きるのだろう。にらみつつも、旦那のマックスが娼婦に子をはらませたという初耳の衝撃情報をも涼しく受け流す(そういうフリをする)ルーは、実にコケティッシュ。可愛さ、可笑しさ、色っぽさをくるんだ「コケティッシュ」な持ち味こそ、女優・石川梨華の最大の武器ではないか。とくに、佳曲「お嬢様/お姉様」の掛け合いのさなかでルーがスカートの裾をひるがえらせてひとつターンし、マックスが閉じこめられた牢の鉄柵に少し身を反らして後ろ手に手をかける姿態の艶めきにゾクッときた。
  • 刑事タイガーとは幼なじみのよしみがあるから、と差し迫った事態にも高をくくっていたマックスに、いよいよ焼きが回ってくる。思いのほか、静かなクライマックスのはじまりだ。八方ふさがりのマックスは牢のなかにうずくまり、その牢の天井に乗ってルーはすっくと彼方を見据える。この上下一対の対照的なフォルムと、ふたりのデュエット「愛のかけら」の相乗効果。シンプルで力強い。マックスは翳りのなかにあり、ルーは輝きのなかにある。ふたりのラブソングは、翳りと輝きが溶けあっている。ルーの衣装はウェディングドレスの純白からワインレッドへ、心ごとマックスのものになるかにみえて、レモンイエローからコバルトブルーへ、乱世を見わたす明け方の空にこそ心ごと染まってゆくよう。【以降、ラストまでネタバレしています。地方公演が初見となる方は読まないでくださいね】
  • 1941年、バルガス独裁政権下。ブラジル政府は大戦に中立の立場を打ち出しながら、ナチスドイツ支持へと傾いた。いまやアメリカ追随の時代じゃない、と慈善公演一座のプロデューサー(シュトリーデル役と同じ小林勝也)が観客に向かって口上をアジり、演出家(マックス役と同じ別所哲也)を紹介し、星条旗ナチスの鈎十字旗にひっくり返して劇がはじまる――という導入部を『マランドロ』はもつ。マックスやルーやマルゴが登場するミュージカルは、正確にいえば劇中劇だ。その劇中劇第二幕のなかで、ブラジルがドイツと断交、連合軍への参加表明がアナウンスされる。つまり、世相の裏面を映す劇中劇が、ナチ信奉者らしき*2 プロデューサーの意向に逆らって時代を先取りしはじめる。*3 権力者の仕組んだ出来レースだったはずの浮浪者デモ行進がコントロール不能となったとき、プロデューサー夫人(シュトリーデル夫人役)がこんなラスト聞いていないわよ! と客席からダメを出す。どうやらマックス役を兼ねる演出家の主導によって劇中劇が改変されていたらしい。彼が先導するフィナーレのサンバ・カーニバルは、中断された劇を祝福し、予見された新時代を祝福する「叛乱」の総仕上げか。*4
  • 宮本亜門版『三文オペラ』はフィナーレを「裏キティランド」とでも呼びたい、ハッピーエンドのパロディみたいなキンキラリンの空間にした。『マランドロ』は劇中劇という異なる位相を仕掛けることで、『三文オペラ』演出の「つまずきの石」、唐突なハッピーエンドにとりあえずの整合性をつけたことになる。しかも、不安な時代の変化を真っ先に嗅ぎとってきたルーとは対照的に、獄中で進退窮まってもなおオレはこのままがいいんだい、と呻くマックス=別所哲也が、時代を先取りした造反演出家に身を変え、フィナーレでルーと出会い直すような妙味もある。シコ・ブアルキの戯曲からあったアイディアだろうか。うまいな、って思う。でも、まだ何かが足りない。たとえば、変わりたい、でも変われない抑圧と混乱の社会のノド元からカーニバルへと、劇中劇という仕掛けを超えて雪崩を打つような力感が……。演出家の萩田氏はフィナーレを「立ち行き難い現実の哀れと虚しさを、せめて空々しく笑い飛ばすラストのドンデン返し、またの名を楽屋オチ」と劇場パンフで解説している。せめて空々しく笑い飛ばす? そんな戯曲解釈でいいんだろうか。シコ・ブアルキの戯曲を読む機会はない。ベースとなったブレヒトの戯曲を読むかぎり、一夜の座興として一切を笑い飛ばした果て、その宿酔に冷や水を浴びせられるような感覚が残る。その痛覚が刺激的だったりする。空々しく笑い飛ばすだけなら、方法と経路は違っても、亜門演出と変わらないではないか。
  • 思えば、ルーがマックスの逃亡という危機的状況に新機軸を打ちだし得たのは、あこぎな売春宿を経営する父シュトリーデルも犯罪稼業の首領マックスも、手を染めてることは同類同罪なのに、かたや街の有力者、かたや追われる身、それなら非合法の密輸商会を正規の会社にしちゃえば「安全」よね、という資本家の娘の嗅覚だったはず。父親みたいに合法的に搾取してやろうとまでは思うまいが、ルーは無垢じゃない。あるいは、マックスを正業につけて父さんと仲直りという想いがあったかもしれない。無垢であることの罪を担っているというべきか。獄中のマックスと改めて対面をするときは、新会社「マックス&ルー・リミテッド」運転資金調達の書類にサインする前に死刑にされてたらどうしよう、って無邪気に心配してみせた。彼の安否を気遣うより先に。そのしれっとした「可愛い悪女」っぷりがいい。
  • 浮浪者たちは橋の下で相変わらず暮らすでしょう。でも、いまは変化の時よ、新しい人間だけが新しい文明に対応できる。いま革命を起こさないと。未来は労働者にこそ開けてる。そんなふうにルーは真剣だけれど、やや若気に勇みこんだ予言をする。そうして、「変わるのが怖い」と唸るマックスといっしょに最後のラブソングを歌った後、牢の上にたたずんで憂いにうち沈む。表情だけじゃなく、ルー役の石川梨華が姿態からそういう気分を放つのだ。私は愛するマックスを死に至るまで踏みつけにするかもしれない、という予感から? 私もまた時代の変化に呑みこまれるかもしれない、というおののきから? なぜか「サウダージ」という言葉が浮かんだ。失われた時への郷愁や、来るべき時への憧憬をふくんだ、ブラジルの聖なる気だるさ。ほら、リオの街では、彼らは一生変わらないとルーが言う浮浪者たちが、父シュトリーデルの命令を振り切って不穏な暴走をはじめている。フィナーレの祝祭感より、乱世を見わたす明け方の空の申し子、ルーの聖なる気だるさのほうにわたしは惹かれる。

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*1:三文オペラ』のポリーは警視総監タイガーの娘ルーシーと三角関係の掴み合いをしますが、これは物語の傍系エピソード。

*2:あるいは、シュトリーデルと同様に時局に迎合してるだけかもしれません。真のナチ信奉者は刑事タイガーですね。余談ですが、劇と同じ時期のブラジル独裁政権の警察長官もナチ信奉者だったようです。

*3:ちなみに、ブラジルの連合軍参加の声明は、歴史上は翌1942年のこと。独裁政権が崩壊するのは大戦が終わる1945年です。

*4:ブラジルの新時代は不安定かつ脇が甘かったようで、1964年には軍事クーデターをゆるしています。『オペラ・ド・マランドロ』原作・作曲のシコ・ブアルキはその軍事政権下を生きました。1968年には反政府活動によって逮捕、亡命へ。そのあたり、反ナチの姿勢で長い亡命生活を余儀なくされたブレヒトに通じます。