身すぎ世すぎ。

映画、演劇、HELLOが3本柱の雑感×考察

フランツ王子/石川梨華

わたしはわたしがわからない!

淑女たちの追っかけにあったフランツ王子は、サファイア扮する亜麻色の髪の乙女と町の広場でふと出くわし、ダンスを申し込む。ミュージカルとは言うまでもなく、歌やダンスのパフォーマンスこそが登場人物の感情の高ぶりや心境の変化、その際だった性格や喜怒哀楽を表現し、見せ場として物語をダイナミックに押し進めていくドラマ形式だ。宝塚風エレガンスを乗せて踊られるこの甘美なダンス・デュエットをとおし、フランツ王子は正体不明の“姫”と電撃的な恋に落ちる。自分のなかに新たに芽生えた正体不明のときめきに思い惑うことにもなる。


梨華ちゃんってやっぱり歌が下手だよね。そうそう、とうなづき合って感想終わり。そんな冷めた声が帰りの道々、おおかたの感に入ったざわめきのなかから耳に入った。でも、わたしたちはそんな自明のことをわざわざ確認するためにミュージカルを観たりしない。*1 その自明のことを出発点にして、どんなフランツ王子像を造型し、どこまで熱い役の感情をそこに吹きこむことができるか? それが彼女と演出家の闘いの長い道程だったはず。楽日を終えるまで闘いは続く。刃先にはだしで立つようなそういうせっぱ詰まったライブ感をもっとも感じさせるのは、石川梨華と主役の高橋愛だとわたしは思う。


大臣の策略にはまってフランツ王子が牢獄に閉じこめられるとき、華麗な宮殿からほの暗い牢獄への鮮やかな場面転換と、静寂のなかで王子の拳が牢の壁を打つ音があいまって、わたしは胸が締めつけられた。劇中にグッと引き込まれた瞬間。そのとき歌われるソロ・ナンバーが「あなたに会いたい」だった。恐れを知らなかった勇敢な王子が「こんなに震えてる自分がわからない」と歌う。死が怖いんじゃない、もうあなたに会えないことが怖いんだと。その王子の情動がとても痛ましく、なまなましく伝わってくるのは、ひとつはもちろん、自分を陥れたサファイア(そう王子は信じている)をフランツ王子が今まさに憎みはじめていて、恋した乙女とサファイアが同一人物だとは知るよしもないことだ。もうひとつは、石川梨華自身がフランツという男役をどんなふうに演じていいのか「わからない」、その手探りの先でやっとつかんだ恋の「震え」、存在の「震え」を歌で差しだそうとしているからじゃないだろうか。


フランツ王子は手塚治虫の原作では、サファイアの女の魂をめぐって、ヘケートの母親にあたるヘル夫人と戦ったりもするのだが、このミュージカルの王子ときたら、瀕死のサファイアの前でふたつの魂がめまぐるしく行き交い、こすれ合うなか、「私には、なにがなんだか……」と呆然とするばかり。名誉のために戦ってきた自分の確かさまでが「わからなく」なってしまう。そんなフランツ王子をラブ・ロマンスの対象としてちと物足りなく思う向きもあろうかと思う。でも、ここに描かれるのは“理想の王子様”じゃない。主題歌「Mistery of Life」に歌われるように、未踏の道を「わからないから生きていく」ひとりの恋する男。
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*1:ミュージカル・アクター(アクトレス)にはそれぞれの得手不得手があって、宝塚のトップを張っても歌は大得意だがダンスはどうも苦手って人もいれば、ダンスは抜群だが歌はちょっと、って人もいる。そういう個性が、歴史的に受け継がれてゆく。アンドリュー・ロイド・ウェーバーが長く頂点に君臨する今のミュージカルの情勢は、オペラ的に朗々と歌い上げられる歌の上手いアクターが重宝される傾向にあるようだが、ミュージカル発祥のアメリカの黄金期では、歌は下手でもダンスが超一流ってスターが芸を競っていた。ジーン・ケリーなんて希代の悪声だったもの。日本に目を移して、『屋根の上のバイオリン弾き』でロングラン記録をつくった森繁久彌はどうか。歌唱力のなさを歌の“味”でカバーして、あとはアドリブを織りこんだひょうひょうたる芝居の芸風で他の追随をゆるさないテヴィエ像をつくり上げた。比較するには役者の格が違いすぎるよ、と言うなかれ。歌・ダンス・演技という三位一体を、弱点を得意な分野でカバーしつつ磨いてゆくのがミュージカルの演者の宿命。超絶技巧の完璧な歌より、役の感情とシンクロするように声が震えたりかすれ気味になった歌のほうが観客の心に届くってことが、ミュージカルでは往々にしてあるのだ。