身すぎ世すぎ。

映画、演劇、HELLOが3本柱の雑感×考察

大臣/吉澤ひとみ

いや。芝居こそ現実なのだ。

手塚漫画との対応関係で、もっともキャラクターに開きがあるのはこの大臣だろう。ジュラルミン大公がイバリ屋のむくつけき男だったのに対し、吉澤ひとみ演じる大臣はどこかドジで憎めない。サファイアが大臣への憎しみをあらわにするのに、大臣はサファイアを憎んでいるふうでもない。ただ、権力への愛と息子への愛情が重なってゆがんだかたちで現れるだけ。


昔から、愛する息子(あるいは伴侶)に権力愛を託するのは女と相場が決まっていて、気弱な夫を国王にと焚きつける“マクベス夫人”タイプとこれを呼んでもいいかも知れない。映画でも、ブルジョアの息子を台頭するナチスの突撃隊にいざなう『地獄に堕ちた勇者ども』(監督:ルキノ・ヴィスコンティ)の母親イングリット・チューリンから、最近では戦争英雄に仕立てられた息子を大統領候補にけしかける『クライシス・オブ・アメリカ』(監督:ジョナサン・デミ)の母親メリル・ストリープまで枚挙にいとまがない。その意味で、吉澤ひとみの大臣が中性的な匂いがするのはとても説得力がある。演出家の木村氏は、宝塚の男役が「理想の男性像」を求められるのに対し、ハロプロの男役に期待するのは「中性的ななまめかしさ」だと語っている。この「中性的ななまめかしさ」を舞台でもっとも感じさせるのが、吉澤演じる大臣だ。舞台の天地を生かした演出で、大臣が魔女のゴージャスな凄みにかしづくところの、ある種、倒錯的な美しさにはゾクッとさせられた。


吉澤ひとみというとスポーツ少女というのがすぐ浮かぶが、同時にキャラクター遊びが好きなちょっと孤独な悪戯少女でもあったのでは……。モーニング娘。にもまだ慣れぬ間にプッチモニの新メンバーとなった戸惑いを隠すように、ラジオの「プッチモニ・ダイバー」で“ゲン爺”はじめいろんなキャラクターの声音をこしらえて先輩の圭ちゃん・ごっちんをビックリさせていたときのことを思い出す。彼女はアイドルというキャラクターを演じているという意識が娘。内でももとより強く、その自分のアイドル像にリアルな手応えを失ったとき、心のバランスを崩しかけもした。いまは彼女が本来もっていた芝居っ気と自然児・吉澤ひとみがとてもいいバランスで折り合っているのだろう。『リボンの騎士 ザ・ミュージカル』でも、どこかひとつタガがはずれている、それでいて、なおうるわしい悪役を喜々として演じているのがうれしかった。そういえば、わたしたちをこの「魂の物語」に導く発端となるのも、まだ生まれる前の命の前身である“吉澤”の悪戯からだったなぁ。


大臣が剣先に毒を塗ってサファイアを陥れようとするところの家臣ナイロンに向けた台詞「芝居こそ現実なのだ」は、シェイクスピアの言葉だったか。うろ覚えだが、映画の『恋に落ちたシェイクスピア』に出てきたような。この舞台でも『ハムレット』が引き合いに出されるが、手塚漫画でも死んだ(はずの)王の亡霊が『ハムレット』みたいに夜な夜な出てきたりする。舞台役者や舞台演出家の少し皮肉の効いた覚悟を感じさせるこんな台詞を、大臣=吉澤ひとみが吐くのを耳にするのは、なんだかとってもすがすがしい。


吉澤ひとみは舞台映えのするシンガー・アクトレスだ。タッパがある。華がある。なにより、デビー・レイノルズライザ・ミネリシャーリー・マクレーンほかミュージカルの一流女性スターの多くがもっている“コケットリー”が、ひらたく言えば、邪気のない可笑しさと嫌みのない艶(つや)っぽさを兼ねそなえた愛嬌――大人の可愛さがある。
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