身すぎ世すぎ。

映画、演劇、HELLOが3本柱の雑感×考察

サファイア/高橋愛

男か。女か。たいした違いはない。             どちらも生まれて育って、死ぬときは死ぬのだ。

自分が恋いこがれる人と自分が心底憎んでいる人が同一人物だと、フランツ王子はサファイアが剣に倒れるまぎわまで知らない。一方、サファイアは自分が想い想われている人が自分を憎んでもいることに、牢獄の場で早くも気づいてしまう。恋は残酷なまでに非対称だ。自分が全力で恋しても、相手は歯牙にもかけない、なんてのはよくあること。けれど、サファイアの立場はさらに痛切というべきだろう。サファイアの女の魂と男の魂が、フランツ王子への恋の成就と否応ない破局の予感をめぐって引き裂かれてしまう。「せつなさ」を訴え、それでも「生きたい」と歌うフランツへの返歌「あなたに会いたい」の、清冽なしぶきを上げつつ身を裂いて落ちてゆく滝みたいな、深い深い悲しみ。高橋愛が献身的に役に打ち込んでいることが、この1曲だけでも感じとれる。


もとよりサファイアは、王の世継ぎを目して男の子として育てられた。本心は女の子でありたいのに。本心は女の子、でも、かりそめの姿でしかない亜麻色の髪の乙女としてフランツに見初められた。本心は女の子、でも、世間に通じた王子サファイアとしてフランツに戦いを挑まれる。こんなふうに、サファイアの魂は二重に引き裂かれている。世を忍ぶ仮の姿と望ましい心のあり方、世に通じた日向の姿と望まぬままに運命づけられた心のあり方が、いよいよタスキ掛けにサファイアを締めつけるのだ。


男の姿、女の姿、男の心、女の心の、ひとつひとつの錯綜した局面を、主演の高橋愛はニュアンスよりも明確な動きとフォルムに気を配りながら演じ分ける。ときには捨て身になって母の胸に飛び込むように、ときにはコミカルに。女の魂を抜き取られたサファイアが一計を案じ、改めて女に扮する面白さ! 憎しみの心が“ゆるし”の心境へと昇華してゆくクライマックスのサクリファイス(自己犠牲)の場は、甘ったるい贅肉をそいでドラマのエッセンスを一場のなかにひといきに熟成させる舞台演出の本領を得て、もう迫真ものだった。凛として、なおせつないエモーションの発露は、彼女の真摯な演技への取り組みゆえだろう。


さて、手塚漫画では、幽閉されたサファイアが抜け道をネズミに教えられ、“リボンの騎士”に変装して世直しのため出没する。サファイアは囚われの身だが、騎士とサファイアが同一人物かもと圧政者は疑って獄舎に出向き、その早変わりがサスペンスにもなる。舞台では、サファイアが幽閉される前、王の死の真相をナイロンから聞き出すためにただ一度きり登場する。ここでのリボンの騎士は、世直しのヒーローという側面以上に、サファイアの今ひとつの仮の姿(仮面)という側面がきわだつ。そこには女の子として「あなたに会いたい」という“まこと”の願いとうらはらに、男の子として生きようとするサファイアのもうひとつの“まこと”が宿っているのではないか。


りぼん。うらはらの男装。仮面のまごころ。仮面をとって歌うまごころ。そのとき、サファイアは自縄自縛の運命にみずから向き合い、「正しく、強く」歩み出そうとする。幼いころへの郷愁と未来への祈念をのせたリリカルなタイトル・ナンバー「リボンの騎士」は、ひとつ前のヘケートと大臣の契約の場と、陰陽みごとな対照をなして胸を打つ。いまも思わず、くちずさんでしまう。
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