身すぎ世すぎ。

映画、演劇、HELLOが3本柱の雑感×考察

ピエール/三好絵梨香,石川梨華    その1

おい。おれたち、このままでいいのか。

牢番ピエールは小さな役だが、思いのほか重要な役だ。難役でもあると思う。第2幕冒頭、ドクロを柱にあしらった暗い監獄。ピエールひとり板つき*1 で登場し、サファイアと王妃を夜明けまでに殺害せよ、という大臣の命令を書面を通して(舞台では声として聞こえてくる)知ってしまう。牢番は「食えない」仕事だ。囚われたヤツから宝石や物品をかすめとり、待遇を計らったりしてちまちま稼ぐ。もしかしたら、為政者からのソデノシタで政敵をおとしめたりもしたかもしれない。それもこれも「食う」ためには仕方がない。俺たちゃ食うことで毎日が精いっぱい。世の中をよくするためとか、自分を高めるためとか、そんなために牢番なんぞしやしない。食うため、家族を養うためならちょっとくらい小悪党にだってなる。こんな世の中だもの、仕方ないじゃないか……


ピエールはいわば、サファイアの王家が治め、先王が死んでいまは落日の気配ただようシルバーランド国の、数十万、数百万の無名の民(たみ)の象徴といってもいいだろう。サファイアは魂の問題をかかえて生きてきたが、「食えない」なんて心配はいままでする必要がなかった。“食うために働く”必要すらなかった。サファイアの正義感や使命感は、それゆえ“にごり”がない。それは王家という“湖”でめぐみ豊かに育てられた者の“にごり”のなさ。いま、サファイアは今日に食事にもありつけないかもしれない状況に立たされ、はじめて食う・食えないの間で汲々として生きている王族の外の世界に触れるのだ。食うための「お礼」をいんぎんに求められ、「無礼な!」と一喝もしてしまう。


ピエールはなぜ、そんなサファイアを助けようとしたのだろう? 一見したところ、取り立てた動機がない。唐突にもみえる。それをドラマ自体の弱さに帰する人もいる。しかし、ここで大事なのは、むしろ、欲得づくの、利害や損得勘定に関わる動機がピエールに(仲間コリンにも)いっさいないことだ。サファイアや王妃を助けると、逆に、自分や家族の立場が危うくなる。にもかかわらず――。


民(たみ)のひとりであるピエールは、いわゆる“愚衆”ではない。愚かだけれど、賢い。食う・食えないの生活に目いっぱいだけれど、できれば働くことが生活のレベルとは違うところでなにかの役に立ってほしいとひそかに願っている。世の中こんなもの、人生なんてこんなものと思っているけれど、幼いころからはぐくんできた、こうあってほしい、こうありたい、という希望を捨てられない。「いいか。理想を並べたって、生き残れないんだぞ」とサファイアに忠告するけれど、落日のいま、サファイアに未来を託そうと小さな「命がけ」の選択をする。ピエールに動機があるとすれば、AだけれどB、その“けれど”の間でかろうじて「生きる資格」を得る無名のだれかれの内発的な動機にほかならない。


ピエールみたいな人は、民(たみ)のなかの少数派かもしれない。かくありたいと思いつつ、みんなその日その日の暮らしに流されてゆく。わたしもそうだろう。でも、ピエールを身近に感じることはできる。さきほど、ピエールは民の象徴なんて安易に書いてしまったが、こうあってほしい民のイメージを演出家はピエールという具体的な人物像に託したのだとわたしは思う。


そう考えると、ピエールはあらためて難役だ。初日の三好絵梨香は正直、段取りをこなすだけで精いっぱいにみえた。日増しに評判を上げているようなので、もう一度観る機会があれば。10日の(彼女のピエール初日にあたる)石川梨華は、心の変化にめりはりがあった。芝居の“間”も悪くなかった。ピエール・トロア・コリンという牢番3人のアンサンブルもよかった。けれど、なにか違う。サファイアと王妃を逃がすとき、彼女がやるとちょっと得意げにみえてしまうのだ。ピエールはそういう役じゃないだろう。逃がすなんてだいそれたこと、オレのうつわじゃない、家族を危険にさらして偽善じゃないか、いいや、こっちはなんとか切り抜けるから逃げてくれ――。そんな葛藤にゆれるピエールの覚悟は、正義の人のいさぎよいそれではなく、ある恥じらいをふくんでいるというか、含羞をもっているはずだろう。石川梨華のピエールが熟すのにも、できれば立ち会いたい。


無念なのは、辻希美のピエールをこの前、観逃してしまったこと。ピエールはもしかして適役かも、という期待がある。比喩的な意味をはずせば「食・え・な・い」は辻希美にとって切実な問題だし、彼女がやるとピエールの善行にとぼけた味が出るような気がする。なにより、わたしたちにとって、辻ちゃんは身近な「よきひと」の象徴だから。
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*1:かみて・しもてや、せりから現れるのではなく、はじめから舞台上にいること。