身すぎ世すぎ。

映画、演劇、HELLOが3本柱の雑感×考察

大臣/吉澤ひとみ 寄り道的再考

私には、あなたこそがヘビに見える。            自分のしっぽを自分で食らうヘビに。

リボンの騎士 ザ・ミュージカル』の主要人物は、役を内側から突き動かすイデア(根本観念)のようなものをもっていて、それが彼らを劇的な行為へと駆り立てるように思われます。ひとまず“愛”とその対立項の相克、せめぎ合いとして簡略な定式化を試みるのはどうでしょうか。

フランツ王子
愛と名誉。かつて敵国だった王子としての名誉心が、愛する人を図らずも憎んでしまうことになります。
王妃
愛と罪。マルシア演じる王妃は劇中、もっとも罪の意識にさいなまれています。王位を継がせるため、わが娘を偽って育てたことへの罪の意識。国民を欺いていることへの罪の意識。それは彼女をじわじわさいなみ、サファイアは女だと、もの狂いの淵で懺悔し、告白することになります。
牢番ピエール
食うことと愛すること。生活と人生、と端的に言い直してもいいでしょう。毎日の生活でいっぱいいっぱい、それでもピエールは人生において大切なことへと向かってゆきます。
大臣
愛と権力。素直に考えれば、そうでしょう。けれど、吉澤ひとみの大臣を虚心にみていると、はてさてホントにこの人は権力欲に息子への親ばか的な愛がくっついて、その“力への意志”に引っ張られているのか、わからなくなるところがあります。愛と権力が結びつくときの濃厚なエロスの粘りけをこの大臣は欠いているから。もっとさらりとしている。実際、彼は「悪魔に魂を売っても悔いはない」とまで望んだ息子の王の座を得て、深く自足しているようにはまるで見えません。むしろ、なお渇いています。国が傾くほど事態を混乱させては「なんのために?」とみずから問いながら、行き着くところまで行かずにはいられない。そんな名状しがたい“渇き”に突き動かされているような。それを“愛の渇き”と呼んでみるのはどうでしょうか。
大臣もう一度
愛、そして愛の渇き。「すべては愛する息子のため!」という言葉に偽りはないはずです。けれど、その直後にひそやかに歌われる「亡き妻の忘れ形見」の一節がずんと胸に迫ってきます。たとえば、愛妻を失った癒しがたい喪失感を大臣が必死に埋め合わせているとすれば? 忘れ形見の息子への溺愛を代償行為として。なにかそういう不可能な愛にかかわるような“なまめき”を、はたまた方図もなく飛び立たないと心が干上がってしまいそうな“渇き”を折に触れてわたしは吉澤ひとみの大臣に感じ、胸を突かれます。魔女ヘケートの膝元にそっと寄せようとする鼻先をふと逸らして、勝ち誇ったように見得を切るところ。魔女の秘薬を飲まされてよろめく王妃を愛人のように抱きとめ、啖呵を切るところ。結局、大臣が真に安息し得たのは、やみくもな上昇志向の翼を灼かれて“失墜”を経験するときでした。そのとき、息子や家臣ナイロンがカゲの暴君だった自分を決して見捨てず、追放の旅のお供をしてくれることを、大臣は安んじて受け入れるのです。まるで、なにも持たないボンクラ3人組の旅回り一座に本来の居場所をみつけるように。

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