身すぎ世すぎ。

映画、演劇、HELLOが3本柱の雑感×考察

魔女ヘケート=演出家 考

言っておしまい、心の重荷を……!

前項の続きとなる考察、あるいは戯れ言)

サファイア
愛と掟(おきて)。サファイアは一方で掟に生きる者であり、もう一方で愛に生きる者です。強さとやさしさ、仮面と素顔にこれを対応させてもいいでしょう。そして、さばくこととゆるすこと。スゴいや、とうなってしまうのは、サファイアがロマンスによって成就する“大団円”の愛よりも、悲劇によって成就する愛の“闘争”のほうに木村演出の力点が置かれていることです。それは、死してあまねく世界を照らす愛、蘇生への祈りとともにある愛です。

魔女ヘケート
愛と認識。生きることとわかること。それにしても……“愛”があまりに安っぽく口にされ、言葉にされるいま、愛なんてもうたくさん、愛を語るなら愛という言葉をなるべく使わずに語りたい、って常日頃思っていたはずのこのわたしの、臆面ない“愛”の濫用ぶりはどうしたことか! たとえば、北野武の映画が暴力的というより、徹底的に醒めた地点から暴力というものを改めてとらえ返す映画であるように、『リボンの騎士 ザ・ミュージカル』には徹底的に醒めた地点から愛というものを改めてとらえ返すような側面があるから、と乗りかかった舟でここは臆面もなく言ってしまいます。ここにおいて、まずは“徹底的に醒めた地点”に立っているのが藤本美貴の魔女ヘケートだと思うのです。
  • ヘケートはまどろみを知りません。永遠という無時間的な世界のなかで覚醒しています。ヘケートは、生きて滅びるという“時間”をもった人間界の浮き沈みを、そこに秘められた欲望や策謀までもふくめて認識、把握しています。そこにつけ入って愚かな人間どもを手なずけることも可能でしょう。でも、彼女は魔女がついに知り得ない人間の愛にあこがれ、それを手に入れようと地上に降り立ちます。ちょっと願いをかなえてやれば、人との取引などわけありません。サファイアの女の魂を首尾よく手中におさめ、あとは王子に愛されるのを待てばいい……。ヘケートは知らなかったのです。人間の愛を成就させるには、“あなた”という他者と“わたし”との間にかかる崖っぷちを自ら踏み越えるような愛の企てが、命がけの跳躍が、つまり「愛する愛」が必要だということを。
  • ヘケートは人間界を高みから見下ろすのをやめ、地上に降りてそのことに気づきました。でも、わかるだけではまだダメです。「わからないから生きてゆく」人間の生へと踏み出すこと。一度かぎりの生を生きること。そのとき、ヘケートの“時間”が動き出します。神様の隣で藤本美貴のヘケートが生まれたばかりのように微笑みます。ヘケートはまどろみ、サファイアが生きた愛の闘争の場に目覚めます。
  • 演出家の木村信司は、娘。たちの前にまず“魔女”として現れました。「私のいうことには絶対にしたがってもらいます」。原作の太い幹を傷つけぬよう四方に伸びた枝葉を削りに削り、私が考え抜いてこしらえた脚本世界、一景一景細部にいたるまでノミをふるい、私が造型してゆく舞台空間の世界。それを勝手に汚したり壊したりしないでほしい。あなたたちはすべてを認識・把握する私の駒(こま)なのだから。娘。たちへのこちらの愚かな親ごころか、はじめの一喝はそんなふうな緊張感すらはらんで聞こえました。
  • 演出家にはいろんなタイプがあります。舞台と映画の違いに目をつぶり、より近しい映画監督に引き寄せて言えば、俳優の動き、目線のやり方から、構図の取り方、光の陰影、小道具のひとつひとつまで、すべてを神のごとくに統御し、タクトを振ろうとするタイプ。逆に、脚本を現場で遠慮なく変更し、物語の構築性を犠牲にしてでも、演じ手が役を生きる唯一無二の時間を自在に現出させようとするタイプ。その両極端のどちらにも天才監督がいます。孤高の監督がいます。どちらがよくて、どちらがダメというわけではありません。
  • ただ、ヘタをすれば、前者は精巧だけど生硬なものに、後者は技量の裏打ちがない素人くさいものに陥りがちになります。その点、両者の間に立つ木村氏の手練れの演出、なおかつ、可能性を極めようとする「大冒険」の演出を得た娘。たちは幸いでした。配役のためのオーディションは、彼女たちの力量をはかる場であるとともに、彼女たちのキャラクターを研究する場でもあったのでしょう。キャストの持ち味をしっかり頭に入れ、役のタイプにそれを柔軟に取り込んだ脚本づくり。真剣と真剣で演じ手と斬り合うように、彼女たち固有の命を役に吹きこんでゆく粘り強いリハーサル。“絶対者”として世界に君臨する魔女キムシンは地上に降り、「ふつうの人の5年にも匹敵する」半年足らずの訓練を経て、娘。たちがシンガー・アクトレスとして“命がけの跳躍”を果たそうとする現場を夢中で愛し、ともに生きてくれた。そう心から実感できる舞台であったことが、うれしくてなりません。
  • 千秋楽のカーテンコールでは、娘。たちによって舞台上に招かれた木村氏の顔に、ヘケートが最後にみせたような微笑みが浮かぶことを、ひそかに願っています。わたしは立ち会えないだろうけれど。

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