身すぎ世すぎ。

映画、演劇、HELLOが3本柱の雑感×考察

魔女,大臣,サファイア 三位一体考

とうとう見つかったよ いまこの瞬間(とき)というもの。

決闘決したフランツ王子の剣先にサファイアの心臓が最後のひと打ちする瞬間、魔女ヘケートはその剣先から海のようにわき立つ血潮に「愛する愛」の“啓示”を受ける。そのとき、ヘケートならどんな詩を詠むだろうか。光の氾濫か、闇の氾濫か、夕刻の太陽とともに突然視界から消えた海に啓示を受け、かつて17歳のランボーはこう詠んだのだが……。

とうとう見つかったよ。
なにがさ、永遠というもの。
入り陽(いりひ)といっしょに
去(い)ってしまった海のことさ。*1

われながらあきれるほかない前フリだが、えいやぁ、って続けちゃう。“永遠”を見つけたランボーの経験も“いまこの瞬間”を見つけたヘケートの経験も、天から降りてきた“啓示”ではない。いわば、地上の啓示。天とつながる地上の啓示だ。


リボンの騎士 ザ・ミュージカル』には神様がでてくるが、神様は舞台を進行させるいわば“狂言廻し”役。神様は罰を与えたり褒美を与えたりするけれど、天啓をくだしたりはしない。神様の導きで改心するほど、藤本美貴の魔女ヘケートは甘っちょろくない。あくまでサファイアが顕現させた地上の事件に雷に打たれるような畏(おそ)れを受け、ある“気づき”を、ある“目覚め”を、ある“変貌”を果たしたのだ。神様がそこにそっと寄り添う。


大臣は息子に“母子一体”とでも形容したくなるような愛を注ぐ。愛の暴走。息子はそのバカげた愛を有り難がるでもウザがるでもなく、なかば受け入れ、なかばやり過ごしているふうにみえる。ときどき、大臣に対する息子の距離のおき方をみていると、息子のほうが賢明な大人の態度で、大臣のほうが駄々っ子に見えたりもする。もっと愛を、もっと力を! と天に訴える駄々っ子に。


息子のあいまいさが大臣を苛立たせる。もしかして、大臣は息子にわが愚かさを叱ってほしかったんじゃないか。そうやって息子の愛を確認したかったのでは? どこかで自分の滅びを待望しているような白夜の色気を吉澤ひとみの大臣には感じる。敵軍が城まで迫っているのに、息子の慶事を優先させるくらいだもの。大臣は追放の旅に出る。旅によって、大臣もまた、ある気づきを、ある目覚めを、ある変貌を経験するだろう。息子とナイロンがそこにそっと寄り添う。


王妃と逃亡するサファイアは、魔女にこう諭されている。

馬鹿な? 自分にそう言うがいい。
男のときは女に憧れ、女のときは男に恋する。
バカげた自分自身に。

一幕の終わりでは、大臣にはこうののしられている。

私には、あなたこそがヘビに見える。
自分のしっぽを自分で食らうヘビに。

男のときは女という「自分のしっぽ」に憧れ、女のときは男という自分のしっぽに恋するヘビ。これは神話に登場する、自分のしっぽを自分で噛むヘビ(あるいは竜)“ウロボロス”じゃないか!


ウロボロスのごとき自己循環の果て、その「バカげた人生」を思い知ったすえ、サファイアがくわだてる愛の闘い。もちろん、決闘を申し出たのはフランツ王子のほうだが、それを「愛する愛」の闘いの場に変容させたのはサファイアだ。魔女なのに「人間の愛」という対立物に憧れたヘケートは、サファイアのある意味“合わせ鏡”である。そんな“似たもの同士”の魂のお返しによって、サファイアもまた、ある気づきを、ある目覚めを、ある変貌を果たす。


三者は三様に“滅び”を経験し、三者は三様に新たな何者かになる。でも、“新たな何者か”ってなんのこと? わからない。ただ、本来の自分をやっと見つけた、という“自分探しの物語”には収まらない跳躍力を、わたしはこのミュージカル・プレイに予感している。魔女と人間。大人と子供。男と女。ウロボロスには“対立原理の同時存在”の意味もある。そのハーモニー。それから……教えないで、教えないで、自分で〜さがす〜からぁ♪ *2
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*1:金子光晴訳。むかしの記憶に頼っているので正確性には自信なし。映画『気狂いピエロ』のラストにもあるように、太陽が沈む直前の光が氾濫する海をうたったものでしょうが、金子訳は沈んだ直後の闇の氾濫とも思えるところがお気に入りでした。「また見つかった」と訳されることの多い冒頭句を「とうとう見つかったよ」と訳した語感も。

*2:この拙稿は、前項の 月のごとくさんのコメントとJELLYBEANさんのトラックバックにインスパイアされ、つれづれに書いたものです。感謝をこめて。