身すぎ世すぎ。

映画、演劇、HELLOが3本柱の雑感×考察

断章

わかると思ったことが またまたわからなくなる。

  • 22日夜の2幕開演直前。緞帳が開く前に少し“間”があって舞台袖のあたりから「のの(ちゃん)頑張ろう!」の声が聞こえる。あれはだれの声だったか? 若やいだ女性の声だったから待機中のだれかだろうか。幕開き前の舞台裏の張りつめた空気が一瞬オモテに吹き込んできたみたいで、妙に耳に残った。
  • 永遠の孤独、永遠という退屈をさすらってきた魔女ヘケートは、生きて滅びる地上の“時の一回性”、2度と戻らない“いまこの瞬間”に目覚める。しかし、それは“永遠”の否定ではない。いまこの瞬間のかけがえのなさにこそ“永遠”は新たに見出されるという逆説。永劫回帰。あるいは、天と地の通底性。
  • 辻希美演じるピエールの初期衝動は、内燃する怒りではないか。自分の不甲斐なさへの怒り。理不尽がまかり通るこの世への怒り。「らって自慢するんらもん」の、あの原初の怒り!
  • 木村信司は“メッセージ性の強い演出家”と聞かされていた。それが、一部なのか大方なのか、宝塚ファンの不評を買う一因だとも。しかし、『リボンの騎士 ザ・ミュージカル』を観るかぎり、鼻につくメッセージ臭というものをほとんど感じない。記事によると、この舞台は“「命の尊さ」というテーマを明確に打ち出して作った”という。ポスターにもそれにからめたキャッチコピーがつけられている。「命の尊さ」――たしかにそうだろう。が、やや公式用テーマの気味がしないか。少なくとも、命を大切にしない奴は……なんて声高に主張する劇じゃない。実のところ、テーマはひと色じゃなく、複数の主題系がからみあっている。もっと感覚が大人なのだ。
  • 感覚が大人。幼稚じゃないってこと。でも、それだけでは充分じゃない。大人の感覚で洗練されているけれど、スノッブで鼻持ちならない、なんてドラマはいくらでもある。少女性、少年性にベースを置いた上で、大人の琴線にも子供の琴線にも触れるリアルとファンタジーの境界にミュージカル・プレイを構築してみせたのだ、といえばいいだろうか。
  • 女と男、ふたつの魂をもつサファイア。少女性と少年性をあわせもつ“両性具有”の少女期だからこそ、サファイアを演じ得るという側面。高橋愛はもうすぐ20歳だが、まだ少女期まっ盛りだ。少女期を引き延ばし得るモーニング娘。という器(うつわ)。吉澤ひとみ小川麻琴新垣里沙がもっていて、いまだ色あせる気配のない少年性が、このミュージカルに発露していることに想いを馳せてもいい。技量のあるオール宝塚キャストでやってほしかったという演劇通の意見も聞くが、それで舞台がさらによくなるというほど簡単明瞭なものとも思えない。一方では、少女期を引き延ばし得る“宝塚”という器もあるだろうが。
  • 「人生とはリアルとファンタジーの総体」と木村氏はいう。かくあってしまう現実世界と、かくありたいという夢と願望の世界が人生を構成する。そのリアル(現実)とファンタジー(夢と願望)のらせん構造が、木村氏の作劇の基本らしい。そういわれると、わかったような気になってしまうが、これが案外むずかしい。たとえば、『リボンの騎士 ザ・ミュージカル』に当てはめるとどうなるか?
  • このミュージカルは単純化すると、生まれる前の天上界(ファンタジー)、地上の物語世界(リアル×ファンタジー)、アイドルとしての現実界=フィナーレ(リアル)の3層に分かれるだろう。中心となる地上の物語世界では、笑いを呼ぶ場面はファンタジーの要素が強く、シリアスな場面はリアルの要素が強いととりあえずいっておこう。それが交互に展開することが“らせん型”ということ? しかし、笑いを呼ぶ場面を多く担う久住小春の息子や道重さゆみリュー、田中れいなリジィエはリアル・アイドルだし、シリアスな場面の重要キャラクター魔女ヘケートが、天地をつなぐきわめてファンタジックな存在だったりする。ファンタジックなものにリアルが貼りつき、リアルなものにファンタジーが貼りついている。「リアルとファンタジーのらせん構造」というものをどう解きほぐせばいいのか、わからなくなってしまう。どなたか、ね・え・教・え・て。

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