身すぎ世すぎ。

映画、演劇、HELLOが3本柱の雑感×考察

トライアングルとシンメトリー Ⅰ

〔関係図試案〕

  • 右の図は『リボンの騎士 ザ・ミュージカル』のキャラクター関係図の概略的試みです。ほんとは愛憎や行為の方向性を“→”で示してゆくのがいいのでしょうが、わたしは、あいにく幼稚園レベルのパソコン作図技術しか持ち合わせていません。それとは別に“→”マークを増やしていくと、かえって全体像を複雑にしてしまうってこともあります。劇中に人と人がからむ出来事の関係性よりも、そこから抽出された各キャラクター間の対照性に光を当てて劇の骨格を浮かび上がらせる、これはひとつの“単純化”の試みです。
  • すると、なにが見えてくるか? いくつものトライアングル(三角形)、そしてひとつのシンメトリー(左右対称、あるいは点対称)です。さらに、天と地をつらぬく垂直軸を見ようとすることもできます。それらについて以降、若干の補足的コメントを加えてゆきたいと思います。
  • 藤本美貴の魔女ヘケート、吉澤ひとみの大臣という最高の脇役を得て、この劇を普遍的・原型的なレベルへと活性化することになったトライアングルについては《魔女,大臣,サファイア 三位一体考》に、すでに書きました。要約すると、魂にかかわる三者のドラマは、サファイアも魔女も大臣もそれぞれが滅びや敗北を経験することで、それが自分の殻を超え出てゆくステップボードになる。そのことにおいて三者は対峙しながらお互いがお互いを映し出すような関係にあるわけです。その三者三様の“自己超出”のドラマが、サファイアの死(『ロミオとジュリエット』風にいえば仮死、キリストの受難劇になぞらえればサクリファイス――仮死と復活)というクライマックスによって、三者三様の終局を迎えるのです。
  • サファイアは自分がかかえもってしまった“男”と“女”の自己循環(堂々めぐり)の殻を超え、ヘケートは人間界のことならすべてお見通しの、愛を知らぬ“認識者”としての殻を超えてゆく。亡き妻の面影が宿る息子への“母子一体”的な愛情を“力”の獲得によって表現しようとした大臣は、一度手に入れた魂の返還という魔女の思いがけない行動と、息子の思いがけない拒絶によって、おのが“無力”を思い知らされることになります。手段を選ばず“力”を求めた大臣が“無力”を思い知るその地点で、息子とナイロンは改めて自己変革の旅のお供を申し出ます。
  • “命がけ”の逃亡幇助をおこなったピエールが歌いはじめる『葬送』という人々の祈りの歌は、ハモりつつコーラスの厚みを増してゆき、ヘケートの目覚めの歌が対旋律となって痛切にからみつきます。それは“命がけ”の行為に出たサファイアのみならず、ヘケートや大臣の蘇生をも導くものです。登場キャラクターたちの想いのたけ、感情のたけがが台詞を歌に変え、動作を踊りに変え、その音楽のうねりが遠心力となって伝搬し、舞台という、劇場という“世界”の表情をも変えてゆく。ミュージカルの原理とは端的にそういうものです。歌の上手さ、踊りや演技の巧みさだけでは充分ではありません。歌いたくてたまらない、踊りたくてたまらない想いが相手を動かし、周囲を動かし、世界を動かすその情動の伝搬のダイナミクス。ミュージカルがもたらす至純の感興に、わたしたちはサファイア、魔女、大臣のトライアングルがもたらすクライマックスを通してたしかに触れたのです。


(この項、続く)
※物語は終わった。でも、人生は続く。
公演は終わった。でも、書きたいことはまだ終わらない。
どうすればいいのだろう? 
ああ、歌うように書くことができれば……
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