身すぎ世すぎ。

映画、演劇、HELLOが3本柱の雑感×考察

スポニチ評の彼方に

こうなるまでは……言えないことばかり。

  • たぶんスルーすることが大人の態度だとはわかっています。でも、某検索サイトのトップにみつけたスポニチ評の誰それに「噛みついてみる」という一文を真夜中にたまたま読んでしまい、噛みつくはずが、アイドルにしてはこれでも良くやっているほうだよ、みたいな結論にそれが落ち着いていて、なにもそんな卑下することはない、評価を下方修正することはないのにとミョーに悲しくなってしまって。
  • リボンの騎士 ザ・ミュージカル』に関して、マスコミからいままでに出た評が、かろうじてスポニチOSAKA、宝塚歌劇支局の評のみというのも、期待はしていなかったとはいえ寂しいっちゃ寂しいですね。ここでそれを取り上げるのは、このミュージカル・プレイに搦め手(からめて)から光を当てるため、マスコミに出る“辛口評”というものの正体(ひとつの典型)にしばし思考をさまよわせてみたいからです。もとより個人攻撃の意図はありません。全文掲載もしません。当該箇所を引用し、全体の流れを補うやり方でも論旨は変わらないので。*1
 衣装や城の装置など宝塚顔負けの豪華さで、甲斐正人が作曲した音楽も
本格的なもので、ミュージカルとしての体裁は整っている。
 しかし、モーニング娘。のメンバーにきちんとした芝居をさせようとし
たことに無理があり、サファイア姫を演じた高橋愛は熱演だったものの、
一夜漬けで男役をさせること自体無謀だった。
 作り自体もやや古めかしく、全体にテンポが悪い。もっと斬新な演出の
工夫がほしかった。
  • このあと、「若い男性ファンでいっぱい」の場内での驚きが軽くスケッチされ、「宝塚を知り抜いたスタッフが宝塚に愛を込めてつくりあげた楽しいパロディー」と評される『くるみ割り人形』レポートへと移行します。さらに話題が変わり、記事は来年度上半期ラインアップとか新トップ就任とか、宝塚の定番ネタへと続きます。2月公演の『黒蜥蜴』に関して「木村演出が外れないことを祈ろう」と改めてクギを刺すことも忘れません。
  • さて、引用箇所です。「豪華」で「本格的」な「ミュージカルとしての体裁」は万全、しかし「一夜漬けで男役をさせること自体無謀」だと。けれど、『リボンの騎士』でわたしたちが感受した男役が、宝塚が長年つちかい、バレエから日舞まで訓練を重ねて「理想の男性像」に到達する「男役」とは異質のものであることはあまりにも明白です。演出家の木村信司はこう語っています。「モー娘。らが演じるのはあくまで女の子。その女の子が男性になり、女性になる。そこに中性的ななまめかしさが生まれる。これこそが今回のおもしろさです」。わたしたちは高橋愛吉澤ひとみ石川梨華小川麻琴新垣里沙亀井絵里三好絵梨香に、あの魔女役の藤本美貴にも「中性的ななまめかしさ」を感じ、魅了されて劇場に何度も通いました。それは宝塚的な見事につくり込まれた「男役」の魅力とは少し外れたところ、「アイドルであろうとベテラン俳優であろうと、ひとつひとつの命をその場その場で生かして前に進める」(木村氏)ところに生まれる、不定型な若さや生命感の魅力だとはいえないでしょうか。
  • 日本の著名な世界的監督が、かつてこんなふうに語っていました。ぼくが作品を懸命に赤く塗ったり、黄色く何度も塗り重ねたりしているのに、評論家はそれがちっとも青くないと言って怒るんだよと。「男役をさせること自体無謀」というのも、そのたぐいの評のようにわたしには思えます。
  • 「作り自体もやや古めかしく、全体にテンポが悪い」。こういう印象批評は書き手によってなんとでも言えるもので、ここはそうですか、というしかありません。*2 けれども、そのあとの「もっと斬新な演出の工夫がほしかった」の投げやりさは、いかがなものでしょう。「古めかしさ」に対応させて「斬新な」という月並みな形容詞をもってきただけで、これでは「斬新な演出」というものが具体的になにをイメージされているのか、さっぱりわかりません。冒頭の「モーニング娘。のメンバーにきちんとした芝居をさせようとしたことに無理があり」というのもそうですね。「きちんとした芝居」に無理があるならどうすればいいのか、具体的にまったくみえてきません。まるで、企画自体をつぶすしかない、と投げやりに言っているかのよう。
  • 誰もがそう意識せずともいくらか批評家になってしまう“一億総批評家”のネットの時代だから、自戒をこめてあえて書きます(というより、文脈の行きがかり上というべきか)。“批評”が読まれるべきものであるための最低条件を。
    • いまあるものがダメだと思うなら、かくあるべし、このようにあってほしい、を具体的に灼きつけること。その具体像が読者によって再批評される緊張感に自分をさらすこと。さもなくば、ただの不平不満、小言(こごと)のたぐいに終わってしまいます。
    • それがなんらかのかたちで“自己批評”を含んでいること。ある対象を批評することが、自分の足元をも揺さぶるものであること。批評の基本は“自己批評”です。自分を批評できないような甘い人間が、どうして他人の作品を批評などできるでしょうか。
  • スポニチ 宝塚歌劇支局の記事は、宝塚ファンに読者を見込んだやや内向きのものといえるのか。あるいは、読者層が世間一般でも事情は同じです。「ミュージカルとしての体裁」を整えてみても、モーニング娘。がやるのならまあそんなところが相場でしょ、とみんながうなずき合う地点におさまって“自分の足元を揺さぶる”なんて望むべくもありません。
  • これら最低条件をも満たしていない批評もどきがマスコミに8割方流通していて、そんなところがおおかたの“辛口評”の正体なのです。評論家と呼ばれるにしろ、コメンテーターと呼ばれるにしろ、識者と呼ばれるにしろ、彼らはいわば、天界から「愛される愛」を求めた魔女ヘケートと同じポジションにいます。自分がある対象なり、ある作品なりに愛されなかったといって苛立ち、怒る。その苛立ちや怒りを天の位置から文章化することによって、自分がもち得なかった魂をかすめとろうとするのです。ヘケートのように地上に降りようともせずに。
  • わたしは批評行為自体を軽蔑しているわけではありません。批評は本来、「愛する愛」のうえにはじめて成り立つものだと言いたいのです。恋文ならば、恋する対象にめしいられるように、いいところのみを並べればいい。そこから身を引きはがし、愛する対象の欠点や短所、そのゆがみや破綻具合をもあぶり出しながら、そのすべてを受け止めること。スタンダールなら、それを「愛の結晶作用」というかもしれません。
  • 「愛されるより愛する愛。それが愛とは知らなかった」とヘケートが歌うとき、彼女はそういう「愛される愛」から「愛する愛」への“絶壁”を跳んだのだとわたしは受け止めたい。「愛される愛」と「愛する愛」、その愛の認識の違いは、相対的な“差異”ではありません。それは“批評もどき”と“批評”の間に横たわるような、ちょっと大げさにいえば“生きる態度”にかかわる絶対的な差異です。わたしたちが魅せられた魔女ヘケートの本質は変わらない。と同時に、彼女は“生きる態度”において変わってみせる(自分の立場を天上、あるいは形而上に置かない。地上に生きること)。それがわたしたちの“生きる態度”をも揺さぶるのではないでしょうか。そういう近しい切実さにおいて、わたしはヘケートの変化をとらえたいのです。
  • さいわい、わたしたちは凡庸な評論家や記者などに頼らずとも、「愛する愛」につらぬかれた優れた『リボンの騎士』考をネットを通していくつも読むことができます。それを最後に5つばかり、ごくごく身勝手に取り上げて、このひたすら愚かさに引っ張られた言葉の群れをおさめたいと思います。著名なサイトばかりで、リンクするのもためらわれますが。ちなみに、このわたしのブログは“恋文”からなんとか一歩踏み出そうとして踏み出せない、そのあたりをフラフラしている感じです。(以下、順不同)
    • リボンラボンバ ――きめ細かい読みを押し進めながら、舞台に現れたディテールにそれをぶつけて、読み自体をひっくり返してみせる。こんなワザはなかなか使えません。自分の読解のほうに酔ってしまい、潔く捨てられないから。
    • 十時課 ――フランツ王子を「ヒーロー」ではなく「ヒロイン」と位置づけ、そのヒロイン的男子の「ダメ感」が好きだという。なんて小気味のいい考察。いまもまだ作品にダイレクトに肉薄する更新が続いて絶好調ですね。
    • Dancing Fisherman ――あふれる想念がまとまらないその混沌を隠さない誠実さ。ひらめきに満ちている。『リボンの騎士』にやられてブログを立ち上げようか迷っていたとき、こちらを知ってわたしの出る幕などないなと正直思いました。
    • ロケットパンツ ――ひとつひとつの場面ごと、舞台を新たに味わい尽くす気分になります。演じ手の誘惑、劇と音楽の起爆力に、からだ中が泡だつ感じもひっくるめて。粘りけのあるユーモリストの筆力。脱帽するほかありません。
    • Hello! copanda ――観劇の楽しみ方がからだに染みついている“見巧者”とおみ受けします。「あったら良かったのになぁ集」や「愉快なヅカの娘さんたち」や《こちら》のサイトさんとのコール&レスポンスもすこぶる楽しい。

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*1:原文を読みたい方は検索すると簡単に見つかります。短いものですので興味がおありなら、どうぞ。

*2:もちろん印象批評自体が悪いのではなく、そこにおのが眼力をかけた優秀なエッセイだってあります。