身すぎ世すぎ。

映画、演劇、HELLOが3本柱の雑感×考察

『白蛇伝』初日

  • ル・テアトル銀座。ここは想い出の地だ。ホテルが建つ前はシネラマの大劇場だった。『屋根の上のバイオリン弾き』を観たときはテーマ曲の「サンライズ・サンセット」に差しかかったとき、館内のほうぼうでくぐもるような合唱が起こった。珍奇な体験だった。オールナイトで『ドクトル・ジバゴ』を観たときは、帰りに向かいの交番で職務質問された。家出小僧のような小汚い恰好をしていたからだろう。看板を指さして「あれを観てきた」と言ったら、「なんだ、露助(ろすけ)の映画か」と返された。日露戦争のころ敵国のロシア人のことを“ろすけ”と呼んでたって、死んだおばあちゃんから教えてもらって以来、すっかり忘れていた言葉。あまりの時代錯誤に笑ってしまった。閉館前のロードショーは『2001年宇宙の旅』で、ホテルと併設された新劇場のこけら落としはサイレントの大傑作『裁かるるジャンヌ』のニュープリント・サウンド版(あるいはバンドが入っての伴奏付きだったかも)だった。いずれも心に刻まれている。
  • さて『白蛇伝』だ。あいにく原作の東映アニメは観ていない。ひとと“あやかし”の禁断の恋の物語。天界、地上界、冥界の3層に分かれた物語。永遠を手放してでも手に入れたいひとの心だの、愛するものの死と再生、戦いと自己犠牲だの、『リボンの騎士』と重なるポイントも少なくないのだが、こういう観念的なモチーフやテーマが諸刃の剣だということがよくわかってしまう。
  • そのつかまえ方が、『リボンの騎士』はシンプルにして立体的。『白蛇伝』は複雑にして平板。『リボンの騎士』はファンタジーの要素をもちながら、あくまで地上をさまよう愛すべき者たちの物語として成立していた。『白蛇伝』の地上は世界から隔絶されたサンクチュアリのような孤島という設定だが、その空間にしばし憩っていたい、視線をつなぎ止めておきたいという磁力が弱すぎる。ひとがあやかしと呼ぶものに恋する青年が手招きされて一線を越えようとしても、故郷の掟に背く愛の危うさ、愛する心をもちながらひとに忌み嫌われるものの悲しさ、それゆえの強さといったものが一向に舞台ににじみ出てくれない。ただ、むなしく妖術合戦が行き交うばかりだ。
  • 安倍なつみ福田花音も全力で役に取り組んでいた。役が想いをはなつ歌にも。だから応援したい。成功してほしい。これから楽日に向けて少しずつよくなってほしいと思う。もし仮に今夜がアメリカみたいに地方公演のトライアウト初日なら、脚本レベルから思い切り手直ししてほしいところだ。まず、人間界の支配をもくろむ妖魔のエピソードをすべて切り(これが物語の対立軸を錯綜させてしまう)、白蛇族と人間族の反目を軸に、禁じられた恋の物語をシンプルな描線で物語ってほしい。天界も冥界も、地上界をこそ際だたせるものとして脇のキャラクターを膨らませてほしい。やたら説教がましい心や愛の能書きをどんどん刈り込み、歌や演技の力に信をおいてほしい。
  • あとは、雄佐役の市川右近さん、歌舞伎調の口跡(とくにクライマックス)をもうちょっと抑え気味にしてください。白素偵=白娘の安倍なつみさん、ひとに結界をはられる“あやかし”としての、かげりのある妖美をもう少し意識して演じてください。機会があれば、また観に行きます。
    • 劇場プログラムでは、斉藤潤哉:プロデュース・脚本・作詞・構成となっている。どうして“演出”ではなく“構成”としたのだろうか。TVドキュメンタリーなんかでは、ディレクターの役目を“演出”ではなく“構成”と表記することはよくあるのだが。(ちなみに、公式サイトでは“プロデュース・脚本・演出”になっている)

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