身すぎ世すぎ。

映画、演劇、HELLOが3本柱の雑感×考察

外堀を埋めるシリーズ 6c

ミュージカルが“子供”だったころ。〈急〉

  • フランスのヌーヴェルヴァーグの連中がハリウッドのウェスタンやスクリューボール・コメディ、サスペンスやB級アクションといったジャンルから“映画作家”を発見し、そのすぐれた作家性を愛してやまなかったことはよく知られている。それらの影響関係については半端につまみ食いしているだけのわたしでも面白い論考や書物が少なくない。だが、ハリウッドの黄金期ミュージカル・コメディとの関係となると、極端に手薄になる。ゴダールが『女は女である』や『気狂いピエロ』などでミュージカル・コメディに敬愛をこめ、晩年のトリュフォーがミュージカル・コメディゆかりのフランス生まれのダンシング・アクトレスレスリー・キャロンを自作の恋愛コメディにわざわざ呼び寄せているにもかかわらず。ヌーヴェルヴァーグ史の盲点? それとも、わたしが知らないだけか。もっとも、いま映画史のおさらいをやるつもりなどない。あくまで『リボンの騎士』への“迂回路”としてきわめていい加減に、無手勝流にいこう。
  • フランスの若い映画狂たちが文筆活動の先鋒を競っていたころ、フランス映画は黄金時代の残照のなかにあった。心理的リアリズム、詩的リアリズムを打ち出す前世代の“名人”たちの映画がまだ幅を利かしていた。“心理的リアリズム”ってのは、人間心理にきめ細かく切り進みながら暗い宿命論の物語をマイナー・コードの名調子で語ってゆく演出術で、そういう文芸調のフランス映画群に彼らはうんざりしていたのだ。ここでの心理表現とは、要するに脚本家や監督の頭であらかじめ解釈された登場人物の心の動きを、役者に託したり小道具や風景を使って間接表現*1 したりすること。そういう“文学的”なものをありがたがって緻密な演技を演じ手に求めれば求めるほど、映画が本来もっていたみずみずしい生命力や運動感が失われてしまう。フランス映画の老匠たちが映画を単なる見せ物ではなく、内面へと向かう新進の芸術にしようとして手放してしまった映画のゆたかな生命力や運動感を、彼らはハリウッドのミュージカル・コメディに見出して夢中になったのだと思う。人間心理など蹴ちらしてショウ(見せ物)であることを謳歌しつつ、シンプルに物語る技芸をきわめた黄金期のMGMミュージカル・コメディを。
  • 映画を撮る前、「フランス映画の墓堀人」ともいわれたやんちゃな批評家だったトリュフォーが、MGMミュージカル『雨に唄えば』についてこんなことを書いていたのを以前どこかで読んだ記憶がある。「グッド・モーニング」を陽気に歌い踊るヒロインのデビー・レイノルズがソファの背を前転しながら跳びこえ、座る姿勢でポーズをきめるとき、スカートの裾が踊りころがる勢いあまってちょっとまくれ上がる。それをデビーが急いで片手で直す仕草の可愛さには萌えずにいられないと。もちろんそんな訳ではなかったが、『リボンの騎士』で踊りころがる久住小春に萌えるわたしたちと、たいした違いはないはずだ。MGMミュージカル・コメディと大作ミュージカルの端境期にあたる『パジャマ・ゲーム』(監督は『雨に唄えば』と同じスタンリー・ドーネン)についてゴダールは、動きのなかに不動を求めるクラッシク・バレエに対し、ミュージカル・コメディでは“不動”は到達点ではなく新たな動きへと向かう出発点、それは動く画である映画の定義とも重なるわけで、そういった観点からミュージカル・コメディは映画の理想化なのだ、というようなことを語っている。
  • 起・承・転ときて最後にクライマックスがくる劇形式に対し、ソング&ダンス・ナンバーがまず先行して、バック・ステージのシチェエーションなどを利用してそれを巧みにつなぎ、後から物語化してゆくミュージカル・コメディでは、純粋に動きのエレガンスやダイナミズムを追求できるクライマックスが、各ナンバーごとに反復的にやってくるようなものだ。ワンステップワンステップ、一級のダンシング・アクターの存在の軽さ(不均衡を求めてやまない均衡)から音楽があふれ出るよう。生身ばかりではない。デビー・レイノルズにかかればソファは単に座る道具ではなく半転する馬跳びの馬なのだし、アステアにかかればステッキも椅子も素敵なダンスのパートナーと化してしまう。ときには重力を無視して部屋の壁や天井がステップを踏むための第2・第3の床と化したりもする。
  • アステアは自伝でこう語っている。「わたしはいつも、自分が出るせいで作家が苦労しているのではないかと思っている。わたしが踊り出すことをいつ何時もみんなが期待しているため、台本がめちゃくちゃになる危険があると思うのだ」。物語はなんらかの結末に向け、因果法則やらゲームの規則にしたがってに求心的に流れてゆくものだが、ミュージカルの歌と踊りのナンバーは動き(モーション)の面でも情動(エモーション)の面でも世界に向け遠心的に広がってゆこうとする。それは「自分では抑えられない動物的喜び」(同・自伝)だ。物語に比重をおくミュージカル・プレイでは、その「動物的喜び」を大人が制御し、意味づけ、整えて物語に寄与させる。いっぽう、ソング&ダンスが物語に優先するミュージカル・コメディでは、「さっさと引っ込んで物語は先に進むんだから次の場面の支度でもしろって」で吉澤ひとみ=大臣が腹を立てようが、喜ばしい“子供”の領域(もちろんそれは血のにじむ努力によって芸として獲得されたものでもある)を物語を引き延ばしてでも開放しようとするのだ。物語を生きる登場人物自身が味わう感興とひとつに溶け合い、ときおりそれが、とんでもない傑作を生んだりもする。
  • リボンの騎士』は演出・脚本家の木村信司自身が各ナンバーの歌詞に関与し、物語(悲劇をも組み入れた物語)と歌詞を緻密かつ有機的に構成したミュージカル・プレイの成果としてある。と同時に、久住小春というコメディエンヌの原石を配し、ミュージカルがもっとも輝いていた幼少期*2 ともいえるミュージカル・コメディの要素を、木村氏がそこに忍びこませてくれたのだとわたしは思う。ミュージカル・コメディはナンセンスなもの、くだらないものをも排除せず、愛をこめてそれをエンターテインメントに昇華してみせる。
  • 春ちゃんが演じる大臣の息子の記憶力は節度を知らない。ぼくの辞書に“忘却”という文字は存在しないのさ、というかのように、すべてを片っ端から記憶して歌とダンス(あるいは回転運動)に吐き出してみせる。意味があるから記憶する。意味がないものは忘れ去る。役に立つから記憶する。役に立たないものは忘れ去る。そんな小賢(こざか)しい智恵は大人にくれてやろう。彼の記憶力は、意味性や有益性の外にある。傍系エピソードをかたちづくるわけでも、意義深い伏線となるわけでもない。物語にとっては収まりのつかないディテール。でも、ミュージカルが子供だったころのまばゆい光がそこからきらりと浮かび出て、『リボンの騎士』を読解しようと四苦八苦するわたしたちを批評しつつ、この卓抜なミュージカル・プレイをおっとり包みこんではいないだろうか。

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*1:よくある例を示せば、握りしめられた写真とか、涙でにじむ手紙とか、ひび割れる鏡とか、にわかに逆巻く海とか。フランス映画黄金期の“心理的リアリズム”はそういう間接表現をもっと繊細化してみせた。

*2:『バンド・ワゴン』には、幼児服を着てアステアやブキャナンらがバブバブと歌い踊る「三つ児」という楽しいおとぼけナンバーがあった。おしゃぶりをつけた赤ちゃんとして神様が地上に送り出す『リボンの騎士』の娘たちとも響き合っているような。