身すぎ世すぎ。

映画、演劇、HELLOが3本柱の雑感×考察

外堀を埋めるシリーズ 大団円

ミュージカルの“新大陸”へ。

  • 名古屋を残すのみとなった『娘。ツアー 2006秋 踊れ!モーニングカレー』(わたしが観たのは武道館と千葉)は、メンバーがMCでさかんに使ったカレーの比喩でいくと、ぐつぐつ煮えたカレーの飛沫が飛んできて熱っ! 熱っ! ってなりながら頬っぺたの黄色い付着物をおたがいが見合って笑い出しちゃう、そういう気のおけない者同士の幸福感にあふれていた。なかでも熱いパフォーマンスだったのが吉澤ひとみ亀井絵里の「シャボン玉」。たぶんに“怨み節”の色合いが濃かったこれまでの「シャボン玉」が、もの狂いを突きぬけて不実な男へ“しっぺ返し”するプロテスト・ソングみたいに昇華されていた。
  • 「シャボン玉」は夏まゆみが娘。に残したシングル最後の振付*1 で、あの髪を振り乱したダンスはもともとミュージカル『ヘアー』を連想させた。オフ・オフ・ブロードウェイのちっちゃな劇場を発火点とするロック・ミュージカル『ヘアー』は、ロックンロール・エイジから取り残されつつあった1960年代後半のブロードウェイの爆弾だった。色どりどりの髪の毛とアンダーヘアをなびかせて全裸になって踊るのよ、ヤラシ〜ねぇ、でもそれが綺麗なんですね〜、なんて感じでいまは亡き淀川長治さんが当時のことを教えてくれた。まさにラブ&ピースのヒッピー・ムーブメントの産物。泥沼化しつつあったベトナム戦争へのプロテスト・ミュージカルでもあった。
  • リボンの騎士』ゆかりの新宿コマの地下、シアターアプルに降り立ったアメリカン・ダンスマシーン(演出はリー・セオドア女史)の来日ショウでわたしは幸い素晴らしい『ヘアー』体験(全裸ダンスではないけれど)をしている。20年代から80年代当時までブロードウェイに一時代を画しためぼしい振付家のナンバーを歌とダンスのアンソロジーにしてみせた『STEPS』は、本場アメリカならではのバラエティ形式のミュージカルだ。クラシック・バレエを取り入れた優美なスタイルで開拓時代のカントリー・ダンスを踊っていた女性ダンサーたちが、淡色のドレスをジーンズに“早替え”し、長い髪を振り乱して『ヘアー』の名曲「アクエリアス」をパワフルに歌い踊る転換の鮮やかさ! 若いダンサーの躍動する肉体自身に、激動する歴史の振り幅がたたみ込まれている――ミュージカルの本場の底ぢからが噴きだすようなステージだった。
  • 恋々と身をよじって千々に乱れていた「シャボン玉」の亀井絵里が、いましがたの恋の奈落など知らぬかのように「恋ing」へと瑞々しく鎮まってゆくとき、そのすべてを呑みこんで“笑う肉体”に、わたしは20年前の『ヘアー』体験にも通じるような胸のざわめきを覚えた。もちろん、ミュージカル草創期のチャールストンやケーキウォークから、タップ、ラテン、ジルバ、50年代のモダン・ダンスやジャズ・ダンスを経て70年代以降のディスコ、ブレーク・ダンスにいたるまで、すべてをこなす勢いで、さらにその基礎にクラシック・バレエや歌の素養があったりする海の向こうのシアター系ダンサーと、技芸の力においては比べるのも不遜だろう。けれど、ダンス・ブームなのかは知らないが、ステータスのためのダンスだとか家族愛のためのダンスだとか、ダンスの前提に野暮な口実をほしがる日本のショウマンシップのいまだ変わらぬスノッブな貧しさをみるにつけ、娘。とハロプロがいまという“切っ先”に宿しはじめたショウ空間の厚みと問答無用の愉しさを、あらためて貴重なものだと思うのだ。
  • いまの娘。のライブを、全体を見わたす俯瞰の位置から味わっていると、振付の隙間を埋めつつパフォーマンスの密度を上げる、ということが“楽”に走ったりせず地道に試みられていることにうれしくなる。その一方で、決めごとのない余白の部分に、娘。同士が交差・結合してゆくパフォーマンスの自由度のアップもある。崩れほころびては繕われてゆく各カップル間の視線劇と密着劇が、ステージ上にとろけるような“楽”の空間をつくりだすのだ。みきよし、よしこは、こはさゆ……。赤ん坊がお母さんのお乳を吸い、言葉に応答して母子一体のなかで大きくなるように、生の横溢としてのエロスはもともと子供に属する。ギリシャ語のエロースを英語にするとキューピット、エロースはしばしば子供として表象される。それぞれ欠如をかかえた娘たちが充溢を求めて関係し合う、性交渉などという限定されたものよりはるかに豊かなエロスの交感の場。リーダー吉澤ひとみ体制によってそれは強度を増したといってもいいだろう。そして、亀井絵里はここでもゴムマリみたいに笑っている。
  • ミュージカル・コメディというのは、タナトス(死への傾斜)を徹底的に排除した底ぬけに楽天的なエロス(生の横溢)の交感の場だ。たとえば、ジンジャー・ロジャースとの名コンビを復活させてフレッド・アステアが『ブロードウェイのバークレー夫妻』の何もないステージ空間でデュエット・ダンスを踊るとき、仲違いしていたパートナーをひといきにとろけさせるようなあの絶品ダンスを見てほしい。凄く高度なことをしているのにテクニックをまるで感じさせないステップ。芸術してるなんて気取りとも無縁で、人柄がダイレクトににじみ出てくるようなダンス。水のように淀みなく、濁りなく、ユーモラスでかつ清冽な運動感。そのとき、アステアはもう50歳になろうとしていた。
  • ブロードウェイは何度も「もう終わり」と言われながら、そのたびに変貌を遂げ、もう90年になろうとしている。娘。も何度も「もう終わり」と言われながら、そのたびに変貌を遂げだが、まだ9年め。まだといっても、9年の時の長さはバカにならない。40年代の『オクラホマ!』、50年代の『ウェスト・サイド物語』、60年代の『ヘアー』、70年代の『コーラスライン』――90年の歴史に切断と継承があるように、9年の歴史にも切断と継承がある。ミュージカル『リボンの騎士』は、娘。が歩んできた道のりのなかでも、崖っぷちからの跳躍力をもっとも要する試みだったと思う。と同時に、さまざまな局面でミュージカルの作法やスピリットとつながりながら、娘。が9年かけてつちかってきたエンターティナーとしての蓄積あればこそ、可能な試みだったとも思う。
  • 「すべてが大冒険。スーパースターのモーニング娘。を使って挑む真剣勝負の先には、新大陸があるかもしれない」と演出家の木村信司は語った。わたしはそれを大風呂敷を広げているだけとは思わない。実際のところ、「既存のミュージカルや海外作品のコピーじゃない、日本人による原作・脚本で成功したミュージカルがいくつあったか?」という木村氏の問いかけに答えようとしてみれば、宝塚歌劇を除外すれば、映画『嫌われ松子の一生』が日本に突然変異のように現れたオリジナル作品の唯一のポピュラーな成功例*3 ということにほぼ尽きてしまう。*4 舞台では、ことオリジナルの成功例ということにかぎれば、劇団四季東宝ミュージカルもハロプロも横一線。テクニックと力量では及ばなくても、アイディアと熱量で“新大陸”へと先んじるのは必ずしも非現実的なことではない。『リボンの騎士』はその最初のひと跳びだ。虚心に観れば、ミュージカルの階層秩序を裾野から揺さぶるようなひと跳びでもあり得るはず。そう信じ、願いをこめて、無謀を承知のことまで横断的に書き連ねてきた。*5
    • いよいよ今日が『リボンの騎士』DVD版の発売日。もうすでに店頭には並んでいるようですね。

_____

*1:その後、夏さんは「Ambitious!野心的でいいじゃん」で娘。シングル曲を約3年ぶりに振付けています。

*2:メロドラマのために利用される不治の病(死)などというのは、タナトスとはまるで別物です。

*3:これから、海外でどれだけこの映画が認められるかは未知数ではありますが。ミュージカルとしての『嫌われ松子〜』については、いつか余裕ができればじっくり書きたい。

*4:いわゆる“髷物(まげもの)ミュージカル”に『鴛鴦(おしどり)歌合戦』という逸品がありますが、これはまあ歌付き時代劇とでも言ったほうがいいかもしれません。ディープな映画好きとしては、ミュージカル的志向の強い鈴木清順の映画群から痛快作『探偵事務所23 くだばれ悪党ども』あたりを『嫌われ松子〜』の上に置けば、とても居心地が良くなります。そういえば、映画版『セーラー服と機関銃』の相米慎二監督も生前、「オレの映画はみんなミュージカルなんだよ」と言っていたなぁ。アジアに目を広げれば、マサラ風の振付を取り入れた『ウィンター・ソング』という、映画づくりをモチーフにした香港ミュージカルの佳品が、この晩秋より日本で公開中です。

*5:ひとつつけ加えれば、次の新作ではぜひ、“歌ものミュージカル”がもてはやされがちな日本の趨勢に逆らい、ミュージカルならではのダンスの見せ場にもじっくり挑戦してほしい。