身すぎ世すぎ。

映画、演劇、HELLOが3本柱の雑感×考察

『星影のワルツ』監督/若木信吾

nicogori2007-04-30

吉澤ひとみ『8teen』の写真家が映画を撮った!

  • さしもの百戦錬磨の吉澤フリークも、まさか『星影のワルツ』まではフォローしていまい。わたしはこれを観てもう数週間になるのだが、その魅力の一端だけでもなんとか書き残しておきたいと思う。充実を誇る吉澤テキサイ群のかたすみにしばし身を寄せて。
  • 2004年の春先、ハロプロの写真集がいわゆる“アート系”の写真家とコラボした短い一時期があった。変に作りこんでアートを気取るくらいならアイドル写真集は通俗性に徹してよぉ、という意見は真っ当なことだし、実際この試みは見込み以上に売れなかったのか、あっという間に路線変更を強いられた。それでも、若木信吾が撮ったこの時期の1冊『8teen』の輝きは失せたりしない。まず、写真家のこだわりとしてアイドル写真集にもしばしばみられるアート的な「作りこみ」とか「気取り」と、この写真集はほとんど関係がない。「ほとんど」というのはゴージャスな衣装を使った数ページにその跡があるのだが、若木信吾にとってそれはむしろ、用意されたから仕方なく撮った“妥協”の部分だろう。ほかのページはどれも、18歳の吉澤ひとみが普段着でふらっと見知らぬ南の島に現れたところを狙ったような写真ばかりだ。むろん、そういう設定自体フィクションなのだが、アーティスティックな作為やポージングの作為を感じさせない。あの安易なニセの“自然らしさ”という作為もない。
  • ここで志されるギリギリの作為は、自然と対峙する吉澤ひとみを刻々の変化のなかで切り取る――シャッターを押すという一瞬の身体反応のなかにこそある。その一瞬に立ち現れる構図の、光の、仕草の、形態の、表情のうるわしさ。なによりそこには、過去からこの一瞬に流れこみ、未来へとあふれ出す“時間”が写っている。若木さんは映画を撮ればいいのに、と当時思ったものだ。でも、やっぱりダメだろなぁ、写真家が撮った映画ってろくなものがないんだもの、とも思った。
  • よしもとばななが『星影のワルツ』に寄せたエッセイで「私は正直言ってたいていのカメラマンの撮った映画にそもそも全く興味がない、たいていは大失敗してるから」と触れているように、写真家の撮った映画はしかばね累々、むしろ写真家出身監督の例外的な成功者を探すほうが面倒がはぶける。スタンリー・キューブリックがいて、ソフィア・コッポラがいて……パッと思いつくのはそれくらい。ソフィアなんて、まあ映画一家の娘だし。最近では蜷川実花「さくらん」が話題になったが、「ほれるも地獄ほれられるも地獄」といった地獄のゆかしさはどこにもなく、演出過剰の芝居付き極彩色写真というおもむきだった。映画というモーション・ピクチャー(動く写真)の、刻々に変化する動き、その動きの器としての“時間”に対する感性と演出力が、どんな一流の写真家でも監督に転身する際には改めて問われることになるのだろう。
  • 「刻々に変化する動き」を極大に追求すればアクション映画になる。それを極小に追求すれば『星影のワルツ』のような映画になる。若木信吾は映画監督への転身といった野心とはまるで無縁に、写真家としての姿勢と地続きの地点で、映画に対してとてもスリリングなアプローチをしている。彼の写真家としての評価を決定的にした写真集『Takuji』*1 のモデルである実の祖父にオマージュを捧げた、きわめてパーソナルな映画だから、フィクションというよりドキュメンタリーに近いという感想が、こういう映画には必ずついてくる。でも、ここで肝心なのは、写真家が愛してやまなかった祖父はもうこの世にいないということ。もうこの世にいない存在を甦らせドキュメントするという不可能な愛の試みには、なによりそれがフィクションであることの透明な悲しみを宿しているものなのだ。
  • 『8teen』からは、かつて「風」と呼ばれた自然児・吉澤ひとみの息づかいがページを繰るごとに伝わってくるが、同時に、アイドル歌手という社会的な役割を担ってもはや自然児ではいられない18歳の吉澤ひとみが、なおかつこの瞬間だけは「風」であろうとするような透明な悲しみがカナメカナメに宿っていて、モノトーンに溶けてゆくような海や荒野の寂寥感とそれがみごとに呼応している。うらさみしくて、なおかつなまめかしくて、そこに秘められた大切な想いに叫びだしたくなるような、命の上澄みのごとき悲しみ。
  • 喜味こいしという伝説の上方漫才師*2 の圧倒的な容貌と物腰に、若木さんの祖父の記憶を溶かしこんだ『星影のワルツ』の自然児みたいなおじいちゃんは、食べこぼしたご飯を息子夫婦にブーたれられて取ろうとし、テーブルに頭をぶつけて思わず笑いをとるような日常を生きている。彼の孫である主人公は写真家志望で実家に帰省中、祖父の失態に対してもポンポン怒らなくてもいいじゃないかと両親に抗議しちゃうおじいちゃん子だ。なにもしゃべることがなくても、寝る前には祖父の匂いがする小部屋へ出かけて、おじいちゃんがもう寝ろというまでそこに居る。そういう休暇中の日常の、淡々とした祖父との交流のなかにこそ、未来の写真家は生涯のテーマとなる“被写体”を発見したのだろう。
  • 圧巻なのは、やがてくる自分の死期を悟ったのか、おじいちゃんが主人公に「海に連れて行ってくれないか」と頼むくだりの小旅行のシークェンスだ。ここにおいて映画は日常からジャンプし、“時間”の果ての旅へとわたしたちをいざなうよう。繰り返すものと繰り返し得ぬものをともどもに伝えて、しわぶき、きらめく波のリフレイン。ああ、刻々に表情を変えて静かに波打ちながら、瞬間、異界のような相貌をみせる『8teen』の海だ! そう気づいて、不意打ちみたいに涙がこぼれてきた。
    • 『星影のワルツ』は現在渋谷のライズエックスにて単館公開中です。こういうひそやかで極私的な映画を観なれていない方には勧めがたい映画ですし、実際もう少しスリムにしてくれればと思うところもあるのですが、わたしにとって大切な映画になりました。いくらかでも興味をおもちになったら、時間のあいた折りにでもご覧ください。*3

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*1:漢字にすると「琢次」。わたしは残念ながら手にとっていません。若木さんはこの祖父を20年間とり続けたのだそうです。

*2:わたしは大阪出身なので、「いとし・こいし」のしゃべくり芸をよく覚えています。

*3:ちなみに、よしもとばななは「彼がどんなに成長しても進化しても、作品の芯にある透明な何かは変わらない、そのくらいに変わらない人」「言い訳をしない人、ずるもしない人」と自分の小説の装丁写真でもゆかりの若木さんを評したあと、『星影のワルツ』を「いつまでも観ていたい」と持ち上げています。