身すぎ世すぎ。

映画、演劇、HELLOが3本柱の雑感×考察

娘。コン吉澤ファイナル/断章

わたし吉澤ひとみは、明日からまた出発します。

  • 亀ちゃんはちゃんと気づいているかどうか、吉澤ひとみが亀ちゃんのことをテキトーテキトーと言いつのるのは、しょーがねえなぁ、でもそこがよくもあるんだけどね、という「共感」が含まれているのを。吉澤は自分の特徴を「長所も短所もテキトー」と自己分析してたんだから。こいつ私の「同類」だなってホントは愛しくてしょうがないんだろう。
  • へたれな愛ちゃんに対してもそういう「共感」があるように、わたしには思える。吉澤だって四期のなかでいちばん口べた、コミュニケーションべただったじゃないか。愛ちゃんが「いつでも胸開けてるんで、おいで」と言ったのは、高橋っ、語ろうぜ、高橋がもっと胸を開いてくれれば私はいつでも飛びこみに行くよ、という前日談がきっとあったんだと思う。
  • 「吉澤さんが卒業すると、私のなかでのモーニング娘。がいなくなっちゃう」という新垣里沙の言葉は、ASAYANで裕ちゃんが入りたての二期メンを廊下に呼びだして説教する「衝撃シーン」を偶然みて以来、娘。ファンを続けてきたわたしにとっても心に響くものだった。ファンの心がわかるガキさんの面目躍如。でも、わたしはこれを、吉澤の言葉「出会いがあるから別れがあり、終わりがあるからまたはじまる」と対にして受けとめたい。かつてザ・バンドの解散コン・ムービー『ラスト・ワルツ』で、たしかロビー・ロバートソンだったと思う、「はじまりのおわりのはじまり」という名言を吐いたが、「はじまりのおわり」を語るガキさんと「おわりのはじまり」を語るよっすぃーはあくまで一対なんだ。
  • それにしても、ぼろぼろとよく泣いたなぁ。小粋な男性ボーカルの「マック・ザ・ナイフ」から、娘。がどーんとライトを浴びて「元気+」を歌いだすところで、いよいよはじまった、あとは終わりがくるまで「通学列車」みたいに吊革につかまって揺れに身を任せるられるしかないんだな、と感じ入って早くも泣いた。「宝の箱」での道重さゆみのやけに思いつめたオニみたいな面相が可笑しいのに、なぜか胸に迫って涙がこぼれたときは、われながらあきれてしまった。涙自慢めいてイヤなのでもうやめるが、どんな映画にしてもドラマにしても、さあ泣いてくれとばかりのあざとく、芸もなく、感傷に淫した演出では、わたしはまず泣けない。逆に、必死を隠し、涙を封じた「さりげなさ」のなかから、なお湧きだしてくるものに泣いてしまう。このファイナル・コンは断然、後者のほうだった。その時間と空間を吉澤ひとみがつかさどっていた。吉澤ひとみの差しだす「吊革」につかまり吉澤ひとみとその娘たちの風圧を感じながら揺れに身を任せていれば、それだけで「幸せ」だった。
  • ライブは終わった。充足と寂寥が深々と残った。感想を語ろうとしても、言葉は千々に乱れた。疲労と脱力の底に堕ちてゆきそうになった。ひと筋の「うながし」だけが、野太い描線でつむじ風みたいにうねっていた。こんなところで止まっちゃいられない、さぁ、はじめようぜ! という、風のうながし。ライブは終わった。でも、人生(ライフ)は続く。ねぇ、風の申し子ひとみさん、迷走ぎみのぼくらはどんなふうに、ここからはじめればいい?

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