身すぎ世すぎ。

映画、演劇、HELLOが3本柱の雑感×考察

えくぼ 9/23昼 前田憂佳・古川小夏

  • この前の連休は、わたしにとってひさしぶりのハロプロ漬けとなった。24日がモー10イベントどっぷりで、その前夜が娘。コン、その日の午後には、『バックトゥザ・白虎隊』の演出家でもある宇治川まさなり作・演出の『えくぼ』を観た。エッグの前田憂佳古川小夏がオーディションを通過して、ハロプロ外の演劇集団スタンダードソングの新作に招かれたかたち。*1 ふたりにとってはアウェイも同然だ。未知の舞台で、ふたりがどんな真価をみせてくれるか? その興味が第一。くわえて、宇治川さんとはどういうタイプの演出家か? その一端を『白虎隊』の前に感じておきたかった。
  • 楽日も喜びの涙とともに終えることができたようなので、この作品の見どころと問題点をごくいい加減・大づかみに拾いだし、『白虎隊』への期待につなげられれば、と思う。哲学・認知心理学分子生物学・脳神経学とあらゆる学問や最新の知見を踏破し、神の領域すら極めたはずが、慢心ゆえか高慢ゆえか、ひとりの患者を死なせてしまう脳外科医の「センセイ」。それが『えくぼ』の主人公だ。死者への悔やみはいっさいないまま、センセイは手柄になるはずの手術の失敗に思い悩む。舞台は中央の岩場のセットと照明だけのほの暗い森の奥。ここは悪魔が道案内するセンセイの脳内なのだ。
  • ミクロ単位のニューロンの発火から、脳神経が無数に連鎖してできた脳のトータルなふるまいが決まり、その脳の状態の瞬間瞬間によってひとの心理状態も決定してゆく。そういう脳システムの精密な因果律が確固としてある。ならば、ひとの自由意志はそこからいかに生まれるのだろうか? ただの錯覚さ、とニヒルに言い放つしかないのか。あるいは、ありきたりの神秘主義を持ち出すしかないのか。いや、もっとシンプルな地点からもその「自由」を、世界をこころざす意識経験の豊かさを、基礎づけることができるはず――。といった、いまをときめく「心脳問題」のスリリングな難問にまで物語が触れる勢いの設定だが、ここで語られる脳内の物語は善業と悪業の、いまさらながらの葛藤劇だ。うーん、21世紀を生きる脳外科医の脳内の話なのに、そんなんでいいの? というところから、まずつまずいた。
  • この舞台はアクション・エンターテインメントの要素が大きいのだが、それを支える古典的な物語に現代性を接ぎ木しようとする意図がハズレっぱなしの気味がある。悪業の国に通じる赤いヒモで銃後の女たちが首をつながれた場面なんて、「運命の赤い糸」を表現するために「赤い糸」を見せちゃうような気恥ずかしさがある。しかも、洒落でやるならともかく、けっこう大まじめなのだ。できそこないのアングラ系? 正直、途中まで劇場から逃げ出したくなったりもしたが、そのたびに「これはおまえの脳内、外には出られない!」というご請託が強迫的に響いてきた。どんだけぇ。脳内は強制収容所なのかい。
  • 気持ちがぐっと舞台のほうになびいたのは、悪業の国(上ノ国)と善業の国の戦いに、善業の国が分裂した闘士の国(外ノ国)と民衆の国(下ノ国)の戦いが加わって、勝つか負けるかのサスペンスとは無縁の地点で、3つどもえの集団アクションが群舞のリズムを刻みだすところだった。激しいアクションがそのままエネルギッシュなダンスに結びつき、キャラクターの情動というより、個々が放つ舞台空間全体の情動に結びつく。北野武が超絶タップのリズムで『座頭市』を演出したような感じといえばいいか。白装束の善業集団が殺されても殺されてもゾンビのように現れて悪業集団に襲いかかるところなんて、なるほど逆説的にはそういうもんか、とその珍妙さが笑える。
  • 前田憂佳演じるシンネは、民たちに信望あつい首領の娘。古川小夏演じるユメリは、民の国から離れて旅に出た女闘士の娘。心の音を聞くシンネは座った状態での、男勝りのユメリは立った状態でのリアクション芝居が多い。男と女の愛の現場に出くわすと、シンネはハニカみ、ユメリは冷やかす。シンネは見ないふりをして見、ユメリは見てはやし立てる。そのあたりの細かい芝居の対称性が、観ていて面白かった。ヒロインがよみがえる(?)祭りの群舞で、お互いが舞台前景に出てきて踊るダンスもしっかり鍛えられたものだった。メリハリのきいたダイナミックな巧さという点では、これを鑑賞したエッグ仲間たちが口を揃えて感動を語るように、小夏ちゃんのほうが上なのだが、わたしは憂佳ちゃんのダンスにも強く惹かれた。どちらかというと内気なシンネが、いままさに踊る喜びを発見したという風に、あられもなく上気したダンスだった。
  • 「動」のダンスシーンに続く「静」のシーン。会えなかった母に届くよう、ユメリが「願いの山」に語りかける。ユメリとはあまり仲良くないはずのシンネが、願いをともにしてそれに続く。国を離れた女闘士へのシンネのプレゼントがボロ雑巾とヌイグルミというのが微笑ましく、それぞれ単独の芝居にも観客をクギづけにする集中力と吸引力があった。ここは随一、抒情味のある名シーンだった。「エクボ」とは、主人公のセンセイが脳内で見初めたヒロイン、ネムリとの間に、やがて生まれる子供に命名された名前だ。それはセンセイがやっと見つけた、守るべき小さな命の象徴なのだが、わたしにはそんな作品の象徴性より、シンネ=前田憂佳やユメリ=古川小夏の、真珠色にツヤめくエクボの現前性のほうがはるかに大切に思えた。
  • おそらく、宇治川さんは脚本+演出をこなして自己の興味のただ中にのめり込むより、物語世界と距離を置いて演出に徹する方が軽みが出ていいんじゃないか。というのがわたしの希望的観測。『バックトゥザ・白虎隊』は脚本家が別の方ですからね。あとは、過去と現在をどう巧みかつリアルにつないでくれるか。宇治川さん得意のダンスのようなアクション演出として、剣舞をどう華やかに、物語と舞いののダイナミズムのなかでみせてくれるか。しばし、期して待ちましょう。

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*1:例によってアップフロントの資金的バックアップが前提でしょうが。