身すぎ世すぎ。

映画、演劇、HELLOが3本柱の雑感×考察

トゥーランドット 5/5昼 感想・劇評もどき

  • ぜひにと思っていた東京公演を観逃したので連休を利用して生家のある大阪まで。梅田芸術劇場阪急三番街の裏手とのことで目星をつけて行ったのだが、むかし行きつけてた映画街とはかなり離れていておおいに迷う。旧梅田コマなんですね。当日券を求めたのに1階前方から5列目くらいの上手寄り中央の席。うれしい。金属くずをジャンク・アートのようにあしらったレリーフ状の吊り幕が眼前をおおっている。荒廃した黄金郷、あるいは冷たく閉ざされた姫の心の内、というイメージだろうか。オーケストラ・ピットから音合わせの音色が聞こえてくる。おのずと期待が高まる。場内はいつのまにか満員となる。
  • 大階段が三面にそびえたつセット美術の威圧感と舞台転換の鮮やかさ。都の群衆を客席通路までいっぱいに配したエキゾチックで色彩豊かなコスチューム・プレイの魅力。ミニマムなスタイルに口当たりのいい抒情と郷愁をのせる、という得意の手法をむしろ禁欲し、合唱のバリエーションに心を砕いたダイナミックで厚みのある久石譲のスコア。「アジア発」として、「祝祭音楽劇」と銘打った未知のストリームを、けれん味いっぱいに威風堂々と渡りきってやろうという野心を感じさせてくれる。舞台上の早乙女太一安倍なつみから生動するものにしたたかに心打たれる。一方で、オリジナル音楽劇を企画もののイベントとしてではなく、純粋に後世に残る作品として日本で成功させるのはやはり並大抵のことではないなぁ、という思いも強く残った。
  • 先王を死に追いやったという思い込みからか、自分の殻に閉じこもった女帝トゥーランドットはいわば傀儡(かいらい)で、その聖なる人形を操りながらワン将軍が実権をにぎっている。メインとなる舞台はそんな古代アジアの架空の帝国だ。いまも都の広場に集った人々が首斬りという最高の見せ物に熱狂している――。往時の西洋オペラならエキゾチックな東洋趣味の意匠を自由気ままにちりばめることもできようが、21世紀のアジア発音楽劇ではそうもいかない。そこにリアルな息吹を吹きこまなければ……というところから、この『トゥーランドット』はつまずいているように、わたしには思える。そこに流れついた島国のカラフ王子が、この国の人間はみんな狂っていると言い、従者リューが、すぐにここを離れましょうとうながすのになお脱出しないのなら、王子がトゥーランドットに惹かれると同時に蜘蛛の糸のようにからめとられてゆく都のまがまがしい魅惑の磁場を、まず舞台上に感得させてほしいのだが。
  • ブロードウェイ・ミュージカルはナチが台頭する歓楽都市ベルリンから『キャバレー』を生み、ローリング・トゥエンティーズに沸く犯罪都市シカゴから『CHICAGO』を生み、切り裂きジャックが出没した産業革命期ロンドンの都市のひずみから『スウィーニー・トッド』を生みだした。文明が熟し、退廃し、花開きながら崩れてゆく時代の狂気をもミュージカルの振り幅は、ボブ・フォシーやハロルド・プリンスの才を借りブラックユーモアに満ちた“愉しき魔境”に変換してきた。むかしむかし、あるところの都のくるめきを、はたして宮本亜門の音楽劇は邪悪のエネルギーがうごめく愉楽の場に変換し得たのか? 一流のスタッフを揃えながら、いささか見かけ倒しに終わってしまった、というのがわたしの見立て。もしそうならば、この劇にとってかなり致命的なことだ。ワン将軍やトゥーランドットが密入りの毒花を舞台いっぱいに咲かせてこそ、狂った世の疾風に逆らって身ひとつのまま屹立するふたつのピュアな魂(ミンとリュー)もよりいっそう際だつことになるのだから。その劇的ダイナミズムが、血塗られた悲劇を光と色の祝祭空間に変転させることにもなるはずだから。
  • 中村獅童演じるワン将軍は美青年ミンが娼窟で売り飛ばされるのを救ってやるのだが、ミンを宦官にして愛玩することしかできない。愛し方を知らない、平民上がりの権力者として登場する。オレを愛してくれとうめくように、ワンは剣をぬき、鞭をふるう。民衆に愛されている仮面の女帝にも、彼は奇妙な思慕とうらはらな怨念を抱いているよう。設定を思い出してみればかなり陰影に富んだ役なのだが、「命をダイスのように転が」して劇空間の狂気の芯となるべきワン将軍が、ひたすら憎々しく悪辣なだけにしかみえないのには困ってしまう。中村獅童は歌えないからダメ、という感想をよく聞くが、歌えないのはキャスティングの時点である程度折りこみ済みで、それを承知で芝居の実をとったのではないのか。ところが、ここでの獅童は弱点を抱えた“悪の華”の匂いをいささかも感じさせてくれない。演出家の問題か、役者の問題か、それともその相性の問題か。
  • トゥーランドット役のアーメイは、逆に歌はいいが芝居がダメというところが評価の相場みたいだ。たしかにシーンごとの感情表現が途切れ途切れでひとつの流れとしてつながってくれない。しかし、先王と異国の王子への炎を秘めつつ心を閉ざした氷の女、という役どころを当初の予定通りケリー・チャンが演じたとして適役となっただろうか。『トゥーランドット』の原典の戯曲はもともとヴェネチアが舞台らしいが、富豪や名士を次々に骨ぬきにしながら自らは大好きなビリー・ホリデイの歌に狂うヴェネチアの氷の女、『エヴァの匂い』のジャンヌ・モローくらい強烈な個性と色香が必要な難役だと思う。流浪の王子カラフの岸谷五朗は、祖国を追放されて投げやりになった王子の貴種流離譚としてはいささか若気に欠けるだろう。とくに、命の尊さに目覚めて教訓まで垂れる後段はつまらない。だが、朗々と熱演をみせびらかしたりしない柔軟な芝居に好感がもてる。
  • わたしの興味をつないでくれたのは、結局この劇を搦め手から支えるもう一対の主役、宦官ミンと従者リューということになる。ほんとは力をめぐるドラマと愛をめぐるドラマが貴賤・聖俗を超えて烈しく交錯する劇的感興、ミュージカル的感興に呑まれていたかった。『ウエスト・サイド物語』での悲劇を前にしたレナード・バーンスタインの重唱スコアを連想させる第一幕ラストの重厚なナンバーに、それぞれの想いのうねりが伝染して劇場全体を包む遠心的なパワーを感じ得たのがピークだった。あとは、まるで死に急ぐように愛に殉じるミンとリューの存在の気韻が、劇の流れからそこだけ浮き上がって心に灼きついている。
  • 蒼き月の化身とでもいうべき早乙女太一のミンは身のこなしや目線の使い方が美しく、中性的な少年性に“静”を感じさせる気品がある。この音楽劇はダンスというエレメントでは、上意下達の権力におもねったり、下から突き上げるパワーでこれを覆したりする民衆の群舞が中心になるのだが、短いながら唯一のソロの舞を早乙女太一がみせてくれたのもうれしかった。ワン将軍に宦官にさせられたミンは感官の変化を自分のものでないように感じながら、いたぶられることで恩義のある将軍に倒錯的な愛を捧げているふしがある。だからただひとつ、鞭打ちの刑を肉色のシャツをつけて受けているのは違和感があった。これでは美しくない。いたいけな月の化身なら、ここは思い切って上半身ハダカでいいじゃないか。
  • 安倍なつみのリューは蜜柑色に輝く太陽の化身だ。狂った世にあって「天命」に逆らってでも愛することに一心に身を捧げ、その見返りを一切求めない。どんな受難にあっても、ないがしろにされても、自分が信じる神と対話を続け、いざとなったら後先考えず、階層秩序の階段を一目散に踏みにじる。リューは舞台を縦横無尽に駆けまわる、無垢な野生児みたいな“動”の女。月と太陽、静と動、陰と陽というミンとリューの対照性は、ふたりをマイナスの極とプラスの極のように結びつけ、やがて、男女の性を介さない友愛による道行きのドラマの様相をみせてゆく。その出発点と終着点が、リュー=安倍なつみの歌の鍛錬の本領となり、純化された感情の発露ともなるふたつのナンバーに震えるように結晶している。引き返せない道行きにふさわしく「愛するための愛」と「月の人」という名のうるわしいナンバーに。
    • なっちはほんとにりっぱだったけれど、この音楽劇が描く清濁の“濁流”のドラマがずいぶん失敗しているので、“清流”を担うなっちが押し出されて得をしたところはあると思う。そのことはこの音楽劇のトータルからみれば、決して幸福なことではない。でも、誇らしかったです。なっち演じるリューへの唯一の不満は最期のシーンとグラン・フィナーレへのつながりにあるのだが、演出に関わることだから一言で済ませられない。また次の機会にでも記しておこう。

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