身すぎ世すぎ。

映画、演劇、HELLOが3本柱の雑感×考察

トゥーランドット 5/5昼 追伸・断片的考察

  • トゥーランドット』は「祝祭音楽劇」とわざわざ銘打たれているが、なぜミュージカルではなくて音楽劇なのか。この劇のモチーフであり、野望としての仮想ライバルがあくまでプッチーニのオペラなので、歌劇に対応させて音楽劇とした、というのがまずシンプルな理由として想像される。では、音楽劇とミュージカルの表現スタイル上の違いとは? 実は、オペラ『トゥーランドット』にインスパイアされた宝塚歌劇の『鳳凰伝――カラフとトゥーランドット――』を座付きの木村信司、『リボンの騎士』のキムシンが脚本・演出で6年前に公演していて、どうやらそれがわれらのキムシンの代表的ヒット作らしいのだ。その『鳳凰伝』もまた音楽劇と銘打っている。「宝塚にしかできない音楽劇」。その定義をめぐるキムシンの解説がなかなか面白い。ネットでみつけたプログラム原稿の引用の引用です。
 この「鳳凰伝」という作品はオペラではありません。そして厳密な
 意味ではミュージカルでもない。ある高名な演出家は「ミュージカ
 ルでは、役者はまず喋り、その感情が高揚してくると歌い、さらに
 感情が高揚してくると踊り出す」と言いました。この意味ではミュ
 ージカルにとって台詞は、音楽を引き出すためのきっかけにすぎな
 い。しかしこの作品においては、生徒たちは話すべき時に話し、踊
 るべき時に踊り、歌うべき時に歌います。そしてその3つ、台詞と
 音楽と振付が互いにぶつかりあいながら壮大なドラマを描いていく、
 というのがやりたかった形式です。ですから台詞を書く側としては、
 音楽や振付に負けないハガネのような、古典劇のような台詞を創り
 出そうと努力しました。
  • もとより「音楽劇」というのはきわめてあいまいなタームだから、これは音楽劇創造に際しての自己流の位置づけということになる。ミュージカルは台詞の延長上に、より正確にいうと台詞がもたらす感情線(エモーションライン)の延長上に歌がありダンスがある、というのはミュージカル表現の特質をとらえて、つくり手ならではの慧眼だ。そうではなくて、現実相のなかに会話も歌もダンスも等しくあって、台詞と音楽と振付が対位法のようにぶつかり合い、融合する音楽劇がやりたいと。なるほどと思う。ただ、これはミュージカルというジャンルの狭義の定義くらいにしておかないとやっかいなことにもなる。
  • たとえば、主人公の夢想が劇中劇風にショウ・アップされる映画版『CHICAGO』はミュージカルといえるのか? オペラのアリアとコルラトゥーラのように全篇歌で成り立った『シェルブールの雨傘』はどうか? といううふうに、従来ミュージカルとされていたものまで、ミュージカルの枠に収まらなくなってしまう。アンドリュー・ロイド=ウェバーは歌ものミュージカルのメイン・ストリームにながらく立っているが、彼の出世作ジーザス・クライスト・スーパースター』なども最初のうちはロック・オペラなどと呼ばれたりしたものだ。キムシン流のミュージカルと音楽劇の定義の境界には、意外と幅広の隙間があって、今回の『トゥーランドット』もそのブレのなかに位置するといっていいだろう。
  • まず楽曲ありきでそれをウェルメイドなハッピーエンド・ストーリーでつないでいった昔の鷹揚なミュージカル・コメディのつくり方と違い、『シンデレラ the ミュージカル』の作曲・作詞コンビでもあるロジャース&ハマースタイン以来、今日のミュージカルは巧みな構成をもつ脚本に作詞家が緊密に関わり、その後で作曲家が曲をつけてゆく、作劇主体のつくり方に変容した。ハマースタインのように作詞家が脚本を兼ねたり、ソンドハイムのように作曲家に脚本の素養があって作詞を兼ねたり。逆にいえば、ミュージカル・プレイの作品力のコアには、劇を統御し押し広げる強烈な個性が、しばしば曲づくりの側にいることになる。そういう視点から、久石譲作曲・森雪之丞作詞の楽曲を、たとえば宮本亜門も演出経験があるソンドハイムの『スウィーニー・トッド』のように演出家をその都度交代して再演するに足るものかどうか、とらえ直してみたいのだが、そうなるとわたしの能力を超えている。劇と連動した楽曲批評をしてくれる方がいればいいのですが……。
  • そういえば、『紅いコーリャン』でコン・リーを見出し、『初恋の来た道』でチャン・ツィイーを見出した傑物チャン・イーモウが、プッチーニのオペラ『トゥーランドット』を北京の紫禁城という本物の舞台を使い『ラストエンペラー』ばりの豪華絢爛のスケール感で1998年に演出した、そのメイキングのドキュメンタリー映画を観たことがある。指揮はズービン・メータ、監督自ら女帝のごとく君臨した色彩あでやかな一大スペクタクル・オペラだった。チャン・イーモウ北京五輪の開会式の総合演出もやるんじゃなかったっけ。ところで、オペラを通しで観たわけではないので推量で語るほかないが、劇中の“謎かけ”の趣向は、氷の女帝がとうとう愛に目覚めるクライマックスのアリアと有機的につながるからこそ生きるものだろう。謎かけをめぐるオペラと神話の相性というのもあるかもしれない。音楽劇『トゥーランドット』では、そのシンボリックな形骸だけが残ったきらいがある。謎かけの答が抽象的すぎて、それを正解とするも不正解とするも出題者の胸先三寸。緊迫感に欠けること、はなはだしかった。
  • 安倍なつみ演じるリューの最期について。物語が悲劇によるカタルシスからフィナーレになだれこむ構成を予感させる以上、観るものはミンとリューの死を早くから予感するわけで、そうするとその死に方をいかに観客の胸に刻みつけるように演出するかがポイントとなる。「むかしのあなたに戻って」とワン将軍の剣に身を投げだすミンの死は、フランツ王子の剣に身を投げだすサファイアの死を思わせるほど鮮やかだった。それに比べてバトル・アクションのさなか、出会い頭にワン将軍に斬られ階段半ばに倒れるリューの死はいかにもあっけない。あまりにもあっけない不意打ちの死がかえって強い印象を残すことをわたしは知っているが、これはそんな不意打ちの死ですらない。ここはもう一工夫ほしかった。
  • たとえば、ちょっとベタかもしれないが、帝国の階層秩序の撹乱者であるリューが愛の力だけで駆けのぼった階段を、死体となって音もなく在るべき場所へ滑り落ちてゆくような。たしか、愛する者の死体が雪の斜面を音もなく滑り落ちてゆく素晴らしく官能的なロングショットが、トリュフォーの『ピアニストを撃て』にあったはずだ。そうすると、ミンとリューの魂が階段最上部に現れるフィナーレの演出がもっと生きることになるのでは? あのさりげない蘇りは、演出家としては拍手がほしいところじゃないだろうか。それはともかく、一流の演出家には演技的に無垢な新人女優を演技開眼させてあげることになにより情熱を注ぎ、歓びを感じるタイプがいるものだ。なっちは本格舞台ではまっさらも同然、宮本亜門安倍なつみに芝居をつけることが今回もっとも愉しかったのではないかなぁ。

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