身すぎ世すぎ。

映画、演劇、HELLOが3本柱の雑感×考察

美勇伝 美勇伝説Ⅴ 6/21 夜(渋谷)

  • 曲線を生かした白亜の空間。薔薇を抽象化したようなモノトーンの装飾。耽美でファンタジックでアールヌーヴォーっぽい。ちょっと『ペネロピ』のデザイン画を連想させるセット美術だ。石川梨華ちゃんがMCで、皆さん、これ見てくださぁい、 といたく感激していた。歌がはじまると、線が震えるようなそのフォルムと照明の色彩感、3人のコスチュームがハーモナイズして、あわあわとしたなかに少女風の洒落っ気を感じさせる空間が現出した。梨華ママは照明の綺麗さをいちばん讃えたという。たしか「唇から愛をちょうだい」の歌終わりだったと思うが、3人がともえに折り重なった静止状態から「曖昧ミーMIND」へと“媚態”が再びうごめき出すときのライティング効果が素晴らしく、なんてあでやかなショウ! と陶然となった。
  • 「なまめかしさ」「つやっぽさ」「色気」をかもし出す「媚態」とは「異性の征服を仮想的目的とし、目的の実現とともに消滅の運命をもったものである」と久鬼周造の名著『いきの構造』にはある。別に異性でなくともかまうまい、「媚態」とはあの人とつながることができれば……という「可能性」にあくまであるのであって、それが実現すると儚く消えてしまう。だから、観客であるわたしたちも、3人の歌とダンスが吹きつくる「なまめかしさ」が、距離ゼロになると消えてしまうことを知りつつ、ゼロの手前まで限りなく接近することを願うのだ。美勇伝コンの“一体感”とは、「みんなでひとつになろう」というありていな一体感の幻想性をわかっていながらも、その手前まで限りなく漸進するわたしたちが共有しうる、こちらの全身までステージとともになまめくような喜悦感のことではないだろうか。
  • ついでに、もう一度だけ『いきの構造』を引用させてもらうと、「いき」とは「垢抜けして(諦)、張りのある(意気地)、色っぽさ(媚態)」ということらしい。媚びは売るが、意地も通す。媚態の奥に真心が隠れ、それでいて、さっぱりとして執着しない。未練を残す野暮はしない。そう考えると、「いき」な女にいちばん近いのは、エロと軽やかに戯れてみせながらどこか超然としている三好絵梨香かも知れないなぁ。美しい心の張りは「いさみ」(勇み)や「伝法」(女だてらの侠気)にも通じる。まさに、美・勇・伝。けれど、急いで付け加えれば、バニーちゃんのかっこうでお尻フリフリでは「いき」もなにもあったもんじゃない。一旦退散、方向転換しよう。
  • 美勇伝の路線は「下品」だという意見を去年あたりよく聞いた。違うのになぁ、と『美勇伝説IV ウサギと天使』のDVDで、ストリップティーズのように回り舞台に身を横たえ、赤いキャミソール風のスケスケ衣装で登場する、ソロの三好絵梨香イカれた頭で思ったものだ。あえて言えば、これは「下品」ではなく「下世話」だろう。「下世話」とは辞書的には「世間で俗っぽく口の端にのぼる言葉や話、物事」ということだが、下品と下世話が混同されることの多い関東圏に比べ、関西圏、とりわけ大阪近辺では上品ぶった、高等ぶったスノビズムへの嫌悪からか、親近感のこもったニュアンスで使われることが少なくないと思う。「下品」はえげつないけど、「下世話」は愛嬌のうち、おもろいやん。だいたい「下世話」を否定すれば、上方芸人の芸もつんくPの創作も成り立たなくなってしまう。
  • 『悪名』で知られる「下世話」でガラのあまりよくない大阪の地方都市で、岡田唯はおそらくいい家族に恵まれておっとりと生まれ育ったのだろうが、その隣の市出身のわたしは唯ちゃんのように分け隔てなく愛嬌を振りまける、おばちゃん風味の「甘えた」*1 娘なら少年期の記憶から幾人もつむぎ出すことができる。おそらく、つんくPもそうだろう。岡田唯をエッグ候補から大抜擢して成立した美勇伝は、関西人であるつんくPの美的・感覚的な愛着がもっともよく出たユニットじゃないかなぁ。江戸の「いき」な下町文化に属する「うつくしい、いさみ肌」「美・勇・伝」というのはむしろ上っ面のお題目で、上方のなかでもローカルな文化圏に棲息する娘の、やけに「うぶな、いろっぽさ」あたりがコンセプトの本音ではないか。ちなみに、東京・日本橋の下町出身ながら、関西に創作の拠点を移した谷崎潤一郎は、30歳を過ぎてもうぶでいろっぽい上方の旧家のヒロインを、戦時体制下に睨まれながら細々と書き継いだ『細雪*2 で魅力的に造型してみせたのだが。
  • 谷崎は79歳まで生きた人だが、仮にもう半世紀長生きしてハロプロを知ったら、きっと美勇伝のコケットリー(いろっぽさと可笑しさを兼ねそなえた媚態)をいちばん愛しただろう。謎の踊り子に魅せられて、浅草の場末にお忍びで夜ごと繰り出す老人を描いた短篇の名はなんだったか。自身老いて体の自由がきかなくなっても、ご贔屓ダンサー目当てにお忍びで日劇ミュージックホールに通ったりした。映画なら、知識人が好んだ心理的リアリズムの名画より、無数の影が色づき交錯する「精巧な夢」としてのゴージャスなメロドラマを好んだ。文豪イメージとはほど遠い、そういう通俗の感覚美に目がない放埒な小説家なのだ。晩年は春川ますみタイプのふくよかな美人を好んだようにも見受けられるが、『痴人の愛』のヒロイン、ナオミのモデルと言われる女性の写真などをみると、肌のキメが細かくて西洋風のちょっとバタ臭いモダンガールに通じる三好絵梨香嬢にとろーんとなりそうな気もする。大阪ローカルのおっとり娘の岡田唯がいて、和洋折衷の黒髪ショートカット*3 の“モガ”(往時はモダンガールをそう呼んだ)三好絵梨香がいて、そのセンターに外国船が行き交う港の女、コケットリーの親玉みたいな石川梨華がいる。
  • まったく梨華ちゃんときたら、音を外してもそれも芸のうち、と言いたくなるような、一流のコメディエンヌのいろっぽさだ。過剰なくらい色気を売りにしてるのに、うぶな心映えがそれを嫌みではなく可笑しみにしてしまう。もっともそれを「うぶ」と思うのが惚れた男の愚かさで、「ほんとの気持ちは焦らして伝える。……触らせてあげない。抱きしめてあげない。いじわるな私、大好きなくせに」というのが、すでに“もてなし”と“いじわる”(関西弁で言えば“イケズ”)を往き来する遊戯的な媚態であり、ショウガールのプロの技なのかも知れない。ならば、その遊戯のとりこに喜んでなろう。そう思える今回のライブだった。かっこよくキメておいて、ニッと笑うその笑い方など、まさに堂々たるコメディエンヌ!
  • 自分は「リーダーには向いてなかった」と石川梨華はMCでぶっちゃけてたが、道重さゆみ嗣永桃子中島早貴能登有沙森咲樹と、その衣鉢を継ぐ全身・全力アイドルの妹候補生があとを絶たないわけで、後輩への梨華ちゃんの直接・間接の影響力たるや凄いものがある。絵梨香嬢は脇腹から肩口にかけてのラインがとくに綺麗で、“脇腹美人”の特長を生かした静的で潤いのあるソロ・パフォーマンスが素敵だった。娘。コンを経由して笑いが倍加した名物人形劇をふくめ、唯やん美勇伝の発想の起点であり、爆弾だ。『最終伝説』は3人の艶笑や情感、フィジカルでガーリィなあでやかさが渾然となった2時間の「FANTASY」であり、目覚めてもなお「終わらない夜と夢」だった。
    • わたしの美勇伝ライブ体験はこの一回切りで打ち止め。オーラスは皆さんのレポを楽しみに待つことにします。

_____

*1:甘えん坊の関西弁。わたし“甘えた”なんですと唯ちゃんはみぃよとのMCで述懐していた。

*2:文章はツヤと気品があるのに、書かれていることはみょーに下世話でいびつで、女の生身の匂いが充満している。そこがいい。

*3:いまは胸元まで伸ばしてるが。