身すぎ世すぎ。

映画、演劇、HELLOが3本柱の雑感×考察

シンデレラ 再会→高橋愛&新垣里沙

世界でいちばん美しい名前。

  • 第二幕一場の後半。ジョイ・ポーシャ・継母が歌い踊る「素敵な夜」が、シンデレラによるコーダ(楽曲の結尾)へと移行する。〈三バカ見栄坊ホラ吹き隊〉の愉快なソング&ダンスが一転、ゆったりと追憶のなかにとろけてゆくような高橋愛の佳唱へとアダージェットで引き継がれるのだ。それを受けるように、本篇、とくに第二幕のテーマ曲といえる「愛しているから」が独唱される。名前も教えてくれなかった舞踏会のヒロインを一心に想う王子によって。歌が登場人物の感情の流れ、愛情の流れを、緩急自在に、とめどなく、波打つように伝達してゆく。ミュージカルの醍醐味がここにある。
  • ミュージカル表現のもつ「時間」の感覚というのは伸縮性に富んでいる。たとえば、長年抗争の絶えない集団に分かれた男と女がひとつのダンスで惹かれあい、ひとつの歌で恋に落ちる、といった圧縮的な描き方もできれば、遠く離れた者同士が互いの影を追うような窓辺の一瞥を歌やダンスによって増幅する、といった描き方もできる。後者は、いわば極みの時間を噛みしめるため、スローモーションで引き延ばすようなもの。スローモーションは安易に陥りやすい手法なので喩えとしてあまりよくないが、ミュージカルでは歌やダンスといった芸の力でたっぷりとエモーション(情動)のダムを造り、解き放つ。それが幾つもの渓流となり、寄せ集まって奔流となると、観るものは引き延ばされた時を忘れる。いつまでも観ていたいという気持ちになる。『リボンの騎士』で多くのリピーターが生まれたように。
  • 第二幕はペローの原作では全体の約六分の一、読むのに3分とかからない分量だ。原作にはない「再会」のシーンを核にして、舞台ではおよそ50分をかけている。波瀾のドラマが書き加えられているわけではない。筋の複雑さに足を取られて失敗するミュージカルは数知れず、これは賢明な選択といっていい。『リボンの騎士』にしても、変装したサファイアが暗躍する原作の活劇的要素をばっさり切って、人物関係を大胆に刈りこんだからこその成果ではないか。『シンデレラ the ミュージカル』の第二幕が素晴らしいのも、シンプルなストーリーラインに乗せて、2本の愛のパルスが互いの不在に苦しみながら歌とダンスで応答しあう感度の良さゆえ。愛の奔流に沸き立つ『リボンの騎士』とはまた違った、こんこんと湧く泉のような求愛の秘めやかさ、清冽さゆえである。
  • 第二幕五場「泉のある森の中」――シンデレラと王子ふたりだけの再会の場として、妖精の魔女が用意した空間だ。そこは、わたしたちがプロローグで一度だけ目にしたシーンだった。シンデレラが下手側、泉のほとりの井戸端で水汲みをしていた初登場のシーンが、ここに回帰するのだ。帰郷途上の王子が現れるのもここだったっけ? 野鳥の鳴き声だけが聞こえる静かな空間。上手側のベンチに「靴」を置き、憔悴して坐っていた王子が彼女に気づく。王子は「はしたない」と言われながら伝令官に託して国中の女に靴を試したものの、ついに誰にもぴったり合わなかった。久住小春の伝令官は軽い役だが、位置としてはシンデレラを王子とつなぐ妖精の女王と対応する。年増の継母・愛華みれに言い寄られたり、コメディエンヌ小春ならではのオイシイ役でよかった。王子をシンデレラとつなぐはずの伝令官の役目は不首尾に終わり、王子は惑いの淵にいる。女王がクギを刺したように舞踏会のあのひとは「幻の女」で、追いすぎると一生を台無しにしてしまうのかもと。そういえば、王子と女王が「愛しているから」をデュエットして、たしかそこに「幻の女」として高橋愛のシンデレラが浮かび上がる、あの二幕二場の幻想シーン、美しかったなぁ。愛してーるかぁら、あーなたぁ、美しいーのかぁ、幻なーのかぁ♪ 
  • 一方のシンデレラは王子の前で、ただの村娘として本来の自分を消そうとしているかのようだ。カボチャの馬車も妖精も登場しない『灰かぶり姫』*1 の著者・グリム兄弟に、シンデレラの曾々孫が真実を語って聞かせる、という説話形式のコスチューム・プレイ、ドリュー・バリモア主演の『エバー・アフター』では、進歩的なシンデレラの「身分違いの恋」にスポットライトが当たっていたが、このミュージカルのシンデレラは身分違いの恋に苦しむそぶりは、ほとんど見せない。もともと爵位くらいは持っていそうなお屋敷の娘だったんだしね。ただ、シンデレラはあの舞踏会を無理やり夢と見定め、追憶につんのめりそうになりながらも、永遠とも思われた「一瞬の夢」を胸に刻んで、村娘として生きてゆく心づもりなのだろう。あの時の自分を「幻の女」として封印しようとしている。か弱くもあり、強くもあるシンデレラ。再会を果たしたのに、王子は「見覚えがある」と感じるのに、ふたりの間にはバリアがある。そのバリアをはさんで、愛のパルスが応答し合ってる。高橋愛新垣里沙、ふたりの芝居の線の細さが生きている。切なさがビンビン響いてくる。
  • 幼い頃、怖々ながら近所の井戸をよく覗きこんだものだ。井戸はイド(下意識)に通じると教えてくれたのは誰だったか。同じく幼い頃、玄関に靴がバラバラに脱ぎ捨てられていると家族がバラバラになっちゃいそうで、何度も並べ替えたりした。人並みに学校の靴箱の想い出もある。爾来、靴はフェティッシュ。演出家が「ファミリーミュージカル」と称したこの舞台にあって、「井戸」とベンチの上の「靴」だけが点景として目立つふたりの再会の場は、際だってエロス的な空間だ。母が心配するからって帰ろうとするシンデレラに、王子は「少しくらい遅れても、許してくれますよ」と引き留め、その自分の言葉にドキッとする。名を尋ねてシンデレラが「つまらない名前ですもの」と応じると、さらにドキッとする。デジャブ。舞踏会での同じ台詞が蘇る。ここでは、言葉も艶めいている。シンデレラ? シンデレラ、シンデレラ! 世界でいちばん美しい名前だ! 彼女を指ししめす固有の言葉、「名前」を口から放って胸元に抱きとめるように王子は連呼する。そして抱擁の二重唱。ドラマ的にあざとい仕掛けのある「純愛もの」はまるで受けつけないわたしだが、こんなに麗しく繊細に、愛の情動の流れを描かれ、演じられると、涙が滲み、あふれて来もする。

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*1:ペローの後に世に出た作品。わたしは未読です。