身すぎ世すぎ。

映画、演劇、HELLOが3本柱の雑感×考察

シンデレラ ミドルティーン 番外篇

  • シンデレラ the ミュージカル』も閉幕まで、あと2回を残すのみですね。夏が終わる気配とともに。わたしは楽日も行けそうになく、新宿コマに通いづめ、なんてブログを読むとうらやましくなります。朝の11時と夕方の4時開演という時間帯がどうしてもネックになってしまって。せめてあと1,2回は観て、もうちょっと作品の細部の魅力に迫りたかった。結局、初日を観たきりで、それから10日間くらいは仕事の合間合間、シンデレラのことばかり思いめぐらしていた気がします。初日によって胸に刻印されたものを噛みしめ、圧し延ばして拙い文を書き留めてきました。
  • いまではそれなりに評価の定まった『リボンの騎士』(それでも一般的な評価はなお不当に低いと思うけれど)ですが、初日から1週間くらいはネットに賛否両論が渦巻いていました。今回はさらに圧倒的に「否」が多く、それに対するややリキみぎみの対抗意識もありました。もうすっかり作品世界にハマった人もいるようで、評価も落ち着いてきましたね。でも、わたしが知るかぎり、『リボンの騎士』のときに比べて、レポや芸評はあっても考察系テキストがいまのところ残念ながら少ないような。題材的にしょうがないのかなぁ。相対的に押し出されるかたちで、奇特な固定客と検索からの遠来の客で成り立っている、こんな辺境ブログに訪れてくれる方がぐーんと増えました。更新もしないのに、普段の更新時の5倍増に跳ね上がった日もあって。幾人かの方にリンクやブックマークもしてもらったようです。感謝します。
  • 新宿コマには再訪できなかったけれど、ネットの恩恵で1957年のオリジナル版『シンデレラ』(ジュリー・アンドリュース主演)と、カラー化された1965年版(レスリー・アン・ウォーレン主演)の2本のTVミュージカルを観ることができました。で、改めて今回の舞台バージョンの美質に気づくことにも。それぞれの異動をごく大掴みにメモしておきます。
    • オリジナル版にはプロローグがない。65年版には、シンデレラが彼女の館の前で井戸水を汲み馬上の王子に差しだす、という出会いのシーンがオープニングに現れる。プロローグの「妖精の花園」シーンは舞台版のみ。
    • 継母とふたりの姉による「シンデレラ、ドアを閉めて!」の命令の繰り返しは、オジリナル版では「窓を閉めて!」。妖精の女王も窓を抜けてくるし、「窓」がキーイメージになってるみたい。
    • オリジナル版も65年版も、妖精の女王は「インポッシブル」と歌いながら、カボチャとハツカネズミを使ってあっさりシンデレラの願いをかなえてあげる。オリジナル版の妖精の女王は、カボチャの馬車に同乗して舞踏会について行きすらする。「インポッシブル」から「ポッシブル」への移行のなかで、妖精の女王が夢見がちなシンデレラをいさめながら導くのは舞台版の際だった特長。
    • オリジナル版では、シンデレラが宮殿に到着するのが夜の11時半で、そこから真夜中12時の鐘までの時の経過がサスペンスの要素となる。王子とシンデレラが一目惚れした後のワルツの群舞では、魔法をかけた妖精の女王までが踊りだす。
    • 舞台版で帰宅後にふたりの姉によって歌われるナンバー「姉たちの嘆き(Stepsister's Lament)」は、オリジナル版と65年版では舞踏会のさなか(休憩中?)に歌われる。
    • オリジナル版では、真夜中5分前、「目覚めるのが怖いわ」というシンデレラに王子がキスを仕掛ける。その「おそれ」の歌として「愛しているから」がデュエットされる。ここは上手い。シンデレラは鐘とともに去り、ガラスの靴とカボチャが宮殿の外に残される。
    • 第二幕一場の佳曲として舞台版でもミュージカル表現の悦ばしさをみせてくれた「素敵な夜(A Lovely Night)」は、オリジナル版では、モップで床拭きしながらのシンデレラのソロ→継母と姉たちのトリオ→シンデレラによる追想のコーダへと移行してゆく。65年版はレスリー・アン・ウォーレンのバレエ的なソロ・ダンスが素敵。
    • 舞台版の靴合わせ行脚のコミカルでテンポのよい進行ぶりは、オリジナル版に通じる。もちろん、執事がいるのみで、可愛い伝令官はいないけれど。
    • オリジナル版では、靴の合う娘が見つからない王子の嘆きをシンデレラは粗末な格好のまま柱の影で聞いている。こんなとこで何をしている、帰れ、という執事が妖精の女王にうながされて彼女に靴を合わせてみる。そこで王子と再会となる。65年版では、シンデレラが継母に外の掃除を言いつけられてオープニングと同じ館の前の井戸のシーンに。シンデレラが水を汲んで差しだす仕草をきっかけに王子が意中の人に気づくのだが、そこに継母や姉たちも現れる。ふたりだけの再会シーンがたっぷり描かれるのは、舞台版の際だった特長。
    • オリジナル版では、シンデレラが一足のぼるごとに宮殿のらせん階段を覆い尽くしてゆくウェディングドレスのレースの長い裾が印象的。
  • さて、少し年齢の問題に触れておきます。ふたりの姉のポーシャが16歳、ジョイが17歳という設定なのだから、シンデレラは14,5歳あたりということになります。ジュリー・アンドリュースは当時21歳、レスリー・アン・ウォーレンは19歳くらい。高橋愛は現在21歳だから、オリジナル版のジュリーと同い年なのですが、3人のなかでは圧倒的に高橋愛のシンデレラが幼くみえます。シンデレラの年齢設定に近くみえます。*1 幼いけれど、打たれ強い。若くして老いるほどの境遇なのに、幼さに見合うくらい夢見がちで、その夢の領域があるから辛い現実も乗り切れる。世の中の灰をかぶっても心映えの綺麗さを保っていられる。そういう役に実年齢を超えて血を通わせられるのは、宝塚をモデルにしたハロプロという花園=夢の領域をリアルな主戦場としてデビュー以来、年齢が止まったみたいに生きてきた高橋愛の強みというべきでしょう。歌、ダンス、演技とも、気張らずささやくような優しさがこもっていたのもいいですね。
  • そして、舞台版――それが初めて舞台化されたロンドン公演以来のものなのか、宝塚版のオリジナルなのかは不明ですが――の際だった特長であるシンデレラと妖精の魔女とのかけ合いの場や、シンデレラと王子の再会の場に、自分からカボチャやハツカネズミを差しだすような少女の性急さや、舞踏会の自分を夢のなかに封印しようとする少女のためらいが、みごとに生きていました。小さな仕草にまで神経を行き届かせて高橋愛がそれを体現していました。加えて、オリジナル版、65年版とも、王子役はありがちな旧タイプの西洋風二枚目俳優で魅力に乏しく、新垣里沙の王子の涼やかで凛とした風情のほうが断然チャーミングでもありました。
  • 最後にオリジナル版に敬意を表し、ジュリー・アンドリュースの「秘密の場所(In My Own Little Corner)」を貼っておきます。当時、ブロードウェイ版『マイ・フェア・レディ』のイライザ役ですでに大人気だった彼女は、その8年後、ロジャース=ハマースタインの最後の作ともなった映画版『サウンド・オブ・ミュージック』で主役のマリアを演じ、旧き良きミュージカル・エイジのフィナーレとして澄んだ歌声をアルプスの山々に響かせてくれました。舞台や映画を観た後、観客が幸福感に包まれて聴いたばかりのメロディを思わず口ずさんでしまう、という体験は、1920年代以来、ミュージカルの黄金時代を築いてきたリチャード・ロジャースによってもたらされた、といってもいいかも知れません。


*1:オリジナル版や65年版は、姉たちがなんともおばさんくさいので、シンデレラの設定年齢も高いのでしょう。でも、シンデレラのキャラクターや行動スタイル、往事の結婚年齢の低さを考えると、やはり10代半ばとするのがぴったりきます。