身すぎ世すぎ。

映画、演劇、HELLOが3本柱の雑感×考察

ハロプロ新人公演 11/24 夜(横浜)

  • 冬一直線のうすら寒さとこぬか雨。雨のなか当日券が出るか不明のままギリギリまで待たされたあげく、出入り口付近までいっぱいの、地獄の釜ゆでみたいな人混みへ開演直前に押しこまれた、あの赤坂BLITZでの不快感が蘇ってくる。『横浜JUMP』の券は持ってるものの2階席はハズレ、スタンディング1000番をはるかに越える悪条件だ。締切の迫った仕事を途中で切り上げ、横浜くんだりまで出向くのはいくらなんでもアホ過ぎでは? という醒めた憂うつに一瞬、アタマが占領される。そやけど、あのもやもやかて、エッグの歌とダンスがいっぺんに吹き飛ばしてくれたやんか! と、内なるだだっ子の声。ハロプロ新人公演という魔界がクセになってしまったヒトの感覚は、そう簡単にまっとうには戻ってくれないみたい。横浜BLITZは赤坂よりフロアが広くて助かった。
  • 今回は、仙石みなみ北原沙弥香という大事な戦力がお休みだし、舞台稽古と重なってリハにあまり時間がとれなかった森咲樹福田花音という最大のお目当てが全体曲のみだし(花音ちゃんはしゅごキャラエッグのデビュー曲もあった)、前回の芝公園の高揚は望めないだろうと思っていたのだが、いまの新人公演は脇にいる者、下にいる者がいつの間にか中心付近にやってくる流動体で、どうして、とても面白かった。前回の隠し球だった関根梓にしても、今回もタンポポの『BE HAPPY 恋のやじろべえ』、ベリの『さぼり』、ごっちんの『特等席』と、ニヤリとしたくなる曲が振られていて、もういつでも準主役くらいにはなれるよ、という存在感があった。
  • 歌の上手さではお姉さん格の吉川友の歌声がビードロのツヤを帯びている(とくに「紫陽花アイ愛物語」)なら、せっきーのほうは若木のようなかぐわしさだ。むかし、関根梓の故郷の信州で下宿生活を送っていた頃、田舎づくりの家の土間に薪風呂があって、湯につかると木の芳香にポカポカ包まれるようだった。せっきーの歌を聴いているとそんな気分をふと想い出し、たまらなくなったりする。彼女は異様に大人っぽいのに、都会の女とはほど遠い田舎づくり。といっても、仙石みーこみたいに純正の田舎美人風情ではなく、いくらか古風でいくらか異国風味だ。あるいは、いかつい野武士の娘という感じか。そういう顔立ちの女の子が信州にはけっこういた気がする。そういえば、わたしが風呂から上がろうとする矢先に下宿先の爺さんの孫にあたる中学生女子が訪ねてきて、土間口と接する玄関をがらっと開けてしまい、お互いとても気まずい思いをしたことがあったっけ。わたしはざぶっと湯に飛びこみ、異国的な信州娘の顔にはさっと湯気が立った。
  • 前回ソロから外されて悔し涙にくれた小川紗季Dohhh UP!やライブDVDの舞台裏に映ったサキチィの奇妙な涙が「悔し涙」なのかはわからないが、わたしはそう勝手に思いこんでいる)は、「キラキラ冬のシャイニーG」でキラキラ放射力のあるパフォーマンスと会心の笑顔をみせてくれた。「ドキドキど緊張」がとれなかった前田憂佳は、舞台上から観客席を睥睨(へいげい)して人懐っこい笑みを浮かべてみたり、ステージを楽しむ余裕がぐんと増してきたみたい。いつぞやのデリステでおっと思わせた田中杏里や小峰桃香の煌めきも、ハロサゴンの珍回答ぶりと合わせて瞳に飛びこんできた。でも、今回のいちばんの隠し球といえばやっぱり、さゆみ・小春の完成形「メリピンXmas」をピンク色のメルヘン界から地上の遊び場へと解き放った最年少コンビ、前田彩里新井愛瞳を挙げるべきだろう。ハロプロ関西時代から異彩を放っていたいろりんが、新人公演トータルでこれだけソロ・パートをもらえたのは初めてだよね。まだ表情は硬いものの、まぁなは眼をしょぼつかせるクセが影をひそめ、安心した。おまけに、眼鏡を外せば意外や怜悧な美人顔、というラブ・コメディの王道パターンの楽しさだった。
  • 今回のラス前のエッグ冒険企画は、ジョン・レノンの「イマジン」をフィーチャーした創作ダンス。破壊と汚染に突き進む世界の愚行を喜怒哀楽で表現する、パントマイムの要素を取りこんだダンス・アンサンブルといえばいいだろうか。こういうのを大人のダンサーやパントマイマーが技巧に任せてやると、押しつけがましいものになるのがオチだ。けれど、エッグという未来の星々、未来の大人たちが、顔の表情、手の表情、ひとつひとつの視線やひとつひとつの姿勢に全神経を集中させてこれを舞うと、かくも初々しく、混じりけのないものになるのか。このひととき、これがエッグの身体が創り出す小宇宙なんだね。ぎこちなさや無力さをも含みこんだそのフォルムの美しさ、そのウソのなさに心を射ぬかれた。良かれと思う良心のメッセージが世界を迷走させることだってあるんだよ、なんて思いつつ、森ティの「恐れ」や憂佳りんの「憂い」を大人の余裕で微笑ましく見ているうち、いつしかそれが「願い」に羽ばたき「祈り」に結晶する事態の推移に、わたしは息を呑んでいた。浄夜のような余韻のなか、ステージが涙でにじみやがった。

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