身すぎ世すぎ。

映画、演劇、HELLOが3本柱の雑感×考察

リズミックタウン 11/29夜 花音 感想

  • 去年の秋ぐち、同じ東京芸術劇場小ホール、同じ演出家・宇治川まさなりで『えくぼ』に出演していた前田憂佳ちゃんが「とにかく!花音は本当かっこよかった!です!」って、ずいぶん投げやりな褒め方を「ゆうか放送局」でしている。で、いつものクセが出てつい比較しちゃうんだけど、女優・福田花音が“持続力”タイプなら前田憂佳は“瞬発力”タイプ、とまずザックリ言ってみたい。花音が内から外へのexpress(表現)に比重をおくタイプなら、憂佳は外から内へのimpress(印象づけ)に比重をおくタイプ。花音が芝居に対して“完璧主義”なら、憂佳は芝居に“未知数”をもちこむタイプ。優劣ではなく、おたがいの存在がおたがいの批評になって、このふたりはホントにライバルとして絶妙じゃないだろうか。一見、犬猿の仲、でも実はケンカ友達、みたいな関係を時間をかけて築いてほしい。出来る子・福田花音が自分の芝居に、思いも寄らないもの、手に負えないものをいかに持ちこむことができるか。それが長い目でみての、女優としてのこれからの分岐点だ、とわたしは思っている。
  • なーんて、佐保明梨ちゃんから「上から目線はやめてください」と叱られそうな物言いからはじめてしまった。ごめんね。でも、勢いで続けます。花音ちゃんについて語るときに、よく「子役臭」という揶揄の言葉が使われる。MCなんかで、あらかじめ用意された台本や頭のなかで考えていた台詞を抑揚をつけて声を張るときなんかに、わたしもたしかにそういうことを思わぬではない。『白蛇伝』のころの演技に子役臭の傾きがあったことも確かだ。でも、『リズミックタウン』で女優・福田花音はそんな臭みをちゃんと回避していた。そのことは強調しておきたい。引き合いに出して申し訳ないが、今回共演したエイベックス系の、かなり演技の基礎トレを積んでいるとおぼしき男の子が、わりと自分の実力を見せつけるような大ぶりな芝居をしてたのに対して、主役の花音は目立とうという意識より、抑えるべきところはしっかり芝居の抑えが効いていた。これは女優としての進化といっていいと思う。
  • ひとつは、前田憂佳と共演した大人の麦茶公演『美女木ジャンクション』の経験が大きかったのではないかなぁ。花音ちゃんが「大尊敬している」というオトムギの塩田泰造さんは、大人の役者にはアンサンブルとして成立するかぎり過剰な芝居を平気でゆるすのだが、思春期前後の役者におんなじ“上手い”芝居を求めたりはしない。ロビンの『コトブキ珈琲』や憂佳の『外は白い春の雲』もふくめ、大人の世界という子供にとっては奇妙で不思議な空間に紛れこんだ女の子(ちなみに、℃-uteの『寝る子はキュート』は子供の世界に大人が紛れこむ逆パターン)を、大人とは異質の柔らかい感受体のように生かそうとする。彼女はその場で感じ得たことを台詞の力を借りてまっすぐに表出する。それがおのずと演技になる。そういう演技観に鍛えられたことが、福田花音にとって今回の初主役の舞台に大きく作用している気がする。
  • もうひとつは、メイという役そのものに関わること。メイのママはメイを身ごもっていたために歌謡コンクールに出られず、歌手としての大きなチャンスを逸している。パパを知らないわたしをひとりで育ててくれたママの夢が、わたしのせいでふいになった……それがメイのいちばんの心のしこりだ。だから、できるだけママの負担をかけないようにしようとする。ママに迷惑をかけないしっかり者のように振る舞おうとする。一方、ママはママで、母親と距離をおこうとするメイに対し、娘は自分をきらい、避けているんじゃないか、と思いこむ。そして、仕事の不調も手伝って行きつけのバーで飲んだくれる。自然とメイの待つ家に帰るのが遅くなる。それでも、メイはへっちゃら。いや平気なフリをしているだけなのだ。
  • 自分が子供を愛し、子供に愛されているという自信のない親に対し、メイは「自分のせい」と気を遣ってしまう子供だ。お前さえいなければわたしは自由に歌手という自己実現の道が開けるのに! という親の漠然とした“期待”を勝手に推しはかり、手のかからない“いい子”でいようとする。一見、しっかり者で聞き分けのいい、明るい子。でも、ホントのじぶんを隠している。福田花音は、いくらかは花音ちゃん自身の足もとを照らしださずにはおかないそんなメイ役に、何事にも動じないと装いながらつい後ずさりしてしまうような、抑制の演技で応えているのだ。
  • 薄紫色の光に照らされた石造りのアーチ橋の上、人知れず「わたしがいちばんほしいもの」のお願いとしてサンタへの手紙を託すその瞬間、これまでニコニコしながら感情を隠してきたメイが正面を向いて真顔になる。ちらと上を見上げ、それから手紙に目を落とし、再びこちらを向いたとき、その真顔の瞳がキラキラした。そこにあふれていたメイの真情をどうして見逃すことができるだろう。小さな仕草に大きな感情が宿っていた。メイはただひと言サンタにしたためていた。わたしがほしいのは「ママ」と。
  • 『リズミックタウン』はこの母娘の物語に、死んだはずの父親の物語、サンタと大泥棒の物語がからんで終幕へとなだれこむのだが、クライマックスに収れんする物語展開自体は定型をハミださないもので、ひねりも新味もあるとはいえない。でも、自分がここに居ることさえどこかゴメンナサイって感じで、見も知らぬ父親の元へ行こうとするメイのうらはらな真情が歌に昇華した白眉のナンバー「メリー・リトル・クリスマス」や、赤いダッフルコートのまま母の胸に飛びこんだあとで、その胸元に耳をつけこちらにキリッと目線を送ったとき一筋の涙がメイの頬を光らせるさまは、なにものにも代えがたい演劇体験だった。そういうときにも福田花音は、メイという役の感情に包まれながら、しっかり自己抑制の効いた演技をしていた。すごいよ、花音。わたしも誇らしかったよ。
  • カーテンコールでは、ママ役の渚あきさんが一緒に合わせる挨拶のタイミングなどを花音にひとつひとつ目配せしていて微笑ましかった。目を凝らすと、花音の顔が無表情にこわばっている。花音ちゃんがそんな顔をするときは、決まって涙をこらえているときだ。主役だから最後まで動じるわけにはいかない。でも、こらえきれないものがある。そこに、小さな女優・福田花音の真情をみつけた。

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