身すぎ世すぎ。

映画、演劇、HELLOが3本柱の雑感×考察

怪盗ボーノから、傑作『グラン・トリノ』へ

  • BUONO!の新曲「MY BOY」のPVは楽しい。みなさんが言うように、きっと元ネタは『キャッツ・アイ』なんだろうけど、鈴木愛理がレーザーセンサーを匍匐前進で切り抜けるところなんて、わたしは『エントラップメント』でニセ泥棒キャサリン・ゼタ・ジョーンズがビーム状のセンサーをくぐったり跨いだりする、ダンサー仕込みのしなやかな身のこなしのサスペンスを真っ先に思い浮かべてしまう。もっとも90年代のハリウッド映画『エントラップメント』が『キャッツ・アイ』を参照していることは大いにあり得ることだが。といっても、おそらく『キャッツ・アイ』自体が元をたどれば、女宝石泥棒が完全防御の宮殿を突破する『トプカピ』や宝石泥棒ネコの本物・ニセモノが覇を競う『泥棒成金』といった往年のきらびやかな名画の影響下にあるはず。そういえば、BUONO!の3人が踊る空間はトプカピ宮殿みたいに半ばギリシャ風、半ばオリエンタルだ。その流れを汲む小泉今日子の『怪盗ルビイ』なんか、あのコミカルな洒落っ気にはきっと嗣永桃子が役にハマりそう。さらにそれらの源流をたどれば、サイレント期の連続活劇に行き着くはずで、そういえばルイ・フイヤードの連続活劇をリメークするという設定でそのメイキングを映画に仕立てたフランス映画『イルマ・ヴェップ』では、マギー・チャンが黒いぴちぴちのボディ・スーツに身を包んでキャットウーマンみたいに屋敷に忍ぶ役だった。連続活劇の女怪盗は、夏焼雅みたくボブ・カットで黒ずくめの出で立ちがよく似合う。
  • とごくいい加減な前振りではじめてみたのは、ブレヒト岩波文庫版原作本をスリリングな演出覚書まで読みこんで渋谷のシアターコクーンに出かけた舞台『三文オペラ』が、狂言回しの米良美一やジェニー役の秋山奈津子、ポリー役の安倍なつみの好演・好唱にもかかわらず、宮本亜門流新解釈の古めかしい前衛もどきというか、押し出しの強い現代化に辟易もしてキーボードを打つ指が進まないからで、いっそこの売れっ子演出家に対して「王様はハダカだ」と言ってみたい衝動にもかられる。しかし考えてみれば、わたしが宮本亜門の作品に触れたのは、あの箸にも棒にもかからぬ映画『BEAT』を手始めに『トゥーラン・ドット』『三文オペラ』の3本に過ぎず、これは出会い方が悪かったということなんだと、とりあえず受けとめておこう。そんなわけで、舞台『三文オペラ』は一旦寝かせることにして、GW映画のことを語ります。
  • 今日はGW映画の真打ち『グラン・トリノ』の初日でもあります。わたしはこれを観てもう1ヵ月半にもなるが、いまだにこの映画のことを想い起こすと胸に迫るものがあって泣きそうになる。クリント・イーストウッド監督・主演の映画として本国アメリカでお正月前後に異例の大ヒットを飛ばしたらしい。この映画を無視したかたちのアカデミー賞会員より市井のファンのほうが、映画出演はこれが最後とイーストウッドが見定めたこのただならぬレクイエムの気配を、感度よく嗅ぎつけたのだろう。まぁアカデミー賞には、ヒューマン路線のサスセスストーリー『スラムドッグ$ミリオネア』あたりがちょうどいい。わたしは甘い人間なので、スラムドッグもいいよね、たしかに脚本の仕掛けの勝った映画だけどスラムの子供たちが活き活きしてるし、ボンベイゆかりのマサラ・ミュージカルの趣向をさりげなくエンド・クレジットに爆発させた演出がなかなか粋やんか! なんて誉めてしまうのだが、『グラン・トリノ』のイーストウッド監督に比べれば『スラムドッグ$ミリオネア』のダニー・ボイルはただのヒヨッコ監督に思えてしまう。
  • イーストウッド監督はオールド・ハリウッド・スタイルの継承者だとよく言われる。たしかにそうなのだが、その本質を乱暴に言ってしまえば、物語の語り方において、最少の要素ですべてを語り尽くす、あるいは最少の仕草や表情ですべてを伝え尽くす、映画演出や映画演技の極意(語りと描写の的確さ、省略技法など)にある。そのシンプル・イズ・ベストの簡潔さはオールドというより、ラジカル(根源的)な意味合いで永遠の新しさに属する。たとえば北野武の最新作『アキレスと亀』などを観ていると、その肉体のみならず映画自体が急速に老いている気がしてしまうが、アクション俳優出身には希有なことにも自らの肉体の老いを隠さぬどころか、積極的に映画に生かしてみせるイーストウッドの映画はますます若々しさを増しているようだ。実際、アカデミー賞を獲ってしまった『ミリオンダラー・ベイビー』や一昨年の硫黄島2部作などよりはるかに奇跡的に、新作『チェンジリング』や『グラン・トリノ』には「存在のふるえ」がショットごとに生気躍動している。ロッキング・チェア風の椅子に深く腰掛けながら、暗闇のなかで自分の罪深さに声なく嗚咽する『グラン・トリノ』の老イーストウッドを、わたしたちは胸底のざわめきなしに受けとめることなぞできるだろうか。
  • グラン・トリノ』は死神に取り憑かれた男の時間がいかに動きだし、いかに再び動きをやめるか……という映画だ。そこにイーストウッドの原点であるウェスタンが描き継いできた師から弟子への、命がけの継承の物語が仕組まれている。恋の指南、労働の指南、男どうしの付きあい方の指南。床屋さんなど、主人公にとって数少ない協力者の魅力的な脇役がいて、偏屈な主人公が望まぬ歓待を受ける気のいい異邦の隣人たちがいる。死神に取り憑かれた男だからこそ、彼は究極のレベルで「愛」を身にまとう。同時にそこには、彼自身をも執拗にむしばむ暴力や絶対悪の感覚がある。ヒューマニティの位相には収まらない。もしかしたら、ミニマリズムの本質にも収まらない。深い闇があり、閃光がある。まるで脈打つ十字架のように、地面に垂直に屹立するモノの気配がある。涙とともに畏怖の念を呼び起こさずにはおかない映画。映画のなかの映画。イーストウッドとともに育ったオールドファンにも、若い映画ファンにも、映画館の暗闇で映画を観たことがないひとにも勧めたい。

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