身すぎ世すぎ。

映画、演劇、HELLOが3本柱の雑感×考察

松本人志の『しんぼる』−超越者への扉

  • 来週9月12日に公開されるダウンタウンのまっちゃんこと、松本人志監督の新作映画『しんぼる』は、お笑いのネタではなく寿司ネタが効いています。正しくはマグロの握りなんですが、口のなかに頰ばると、なんというか笑いの鬱血したギャグが出口を求め、時をおいてワサビのように脳天を突きぬけます。閉ざされた部屋の壁一面、真っ白な矩形の空間に握り寿司の赤身が点々。*1 映画的にはいかにもちっぽけなイメージだけど、このちっぽけさが増幅されてクセになってくるんです。アイディア倒れの気味があった前作『大日本人』に比べ、今作はちっぽけさが壮大さに至る回路、というか反転力に唸らされました。
  • 『しんぼる』には「宣伝戦略上」の禁止事項が幾つかありまして、まぁ書き手としてはミステリーなら犯人はもとより、トリックや伏線をバラさないとか、一般の映画なら結末やどんでん返しの仕掛けを具体的にバラさないとか、基本的なルールさえ守ればパブリシティ・サイドの禁止事項の拘束力など本来は道義的にあるはずもないのですが、ここはネタバレに鷹揚じゃないネット空間、禁じられた4つの情報を伏せる、という変則ルールにのっとった方向で。でも、そうすると語り方が、空間描写のみならず、展開に関しても抽象的にならざるを得ないんですね。ふたつの物語が思いがけないかたちで連動する飛躍の妙も語れません。「しんぼる」とは、この「飛躍」がもたらす超越的にして象徴的な意味合いと、小便小僧を連想させるイタズラ天使的な男の子のチンポコの意味とのダブルミーニングでしょう。これ以上語ると、これもまた禁則に触れてしまいます。悩ましいねぇ。
  • 『しんぼる』ではふたつの物語が平行して語られます。ひとつは先に触れた白い密室のお話で、登場人物は松本人志演じる子供服風の水玉模様のパジャマを着た男ただひとり。映画の主軸をなすのはこっちのほうで、一見まったく無関係なもうひとつのお話と呆気にとられるかたちで結びつつ、全体が3つの章に構成されています。目が覚めると、男は理由もなく、見知らぬ部屋に幽閉されていた、という設定はたちどころにスリラー『SAW』を連想させますし、出口なしの四角い無機質空間からの脱出の試みという第一の展開はカルト人気を誇るヴィンチェンゾ・ナタリ監督の『CUBE』を連想させます。でも、これらは誰にでもわかる前提にすぎません。握り寿司と醤油のギャグ、握り寿司とでっかい壺のギャグあたりを手始めに、マッドな支配者か神様の仕業か、それともあくまで無情な偶然のなせる業か――これをあやつるものの意地悪な哄笑すら聞こえては来ず、パジャマ男は発狂しそうになりながらも、無意味なトラップ(罠)にしか思えなかったこの「偶然」を拾い集め、組み合わせて不可能に近い脱出の糸口を学習してゆくのです。
  • 一見、くすくす笑いに満ちたナンセンスな不条理コント。登場人物は松本人志ひとりだけだから台詞はすべてモノローグです。ええぇ、なにそれぇ?! こらーっ! もうやめてぇ! ごめんなさぁい! いや、これはモノローグ(独白、自己対話)ではないですね。あえていえば、見えない「神」への必死の突っこみ。そのとっ散らかったカオスから男は少しずつ脱出劇の「ゲームの規則」を見出してゆきます。そして、試み、失敗し、こっぴどい目にあい、また試みる。そういう修行を繰り返して意地悪な装置をなんとか使いこなしてゆく。ひとを食った装置の作動ぶりには、ハワード・ホークスとまでは行かずともニヤリとしちゃいます。松本人志が自家薬籠中のものとしているコントの発展形といえましょう。さらに肝心なことは、その学習と修行の成果が、第2章「実践」の章に当たる第二のダンジョンへ、パジャマ男を導くこと。ここに至ると、もう具体的なことは何も書けなくなります。
  • うずうずを押しとどめて、大まかな方向づけだけを疑問形で提示させてください。それもイヤなら、この段は読み飛ばして。……もし、パジャマ男が身に受けた、災禍とも贈り物ともつかない「偶然」のイタズラが、あるいは「奇跡」のような突発事が、わたしたちの世界へと差し向けられたら? 些細なハプニングから一大事まで、それをあやつる、というより闇雲に踏みちらすカギを、第一の修行を終えたパジャマ男が握るとすれば? いわば全知でもなく全能でもないヘタレな「神」として、パジャマ男はどんな失敗を重ね、どんな修行を積み、どんな変貌を遂げ、どんな「未来」の扉(第三のダンジョン)を開けるのでしょうか。
  • さて、平行して描かれるもうひとつのお話に、さらりと触れておきます。キューブ状の白い抽象空間に展開するお話が、ひっくるめて世界の采配の「原理」篇であるならば、こっちは世界の諸相の一例としての「現象」篇といえそうです。小さな教会とプロレス興行のホールがあるメキシコの田舎町、そのとある家庭。覆面レスラーが家に居ること以外、なんの変哲もない生活風景です。今日は興行があって対戦相手は強敵らしい。覆面レスラーの幼い息子がおじいちゃんと試合を観に来ること以外、事件らしい事件も起きません。でも、おんぼろ車が砂塵をあげて一本道を走る感じとか、おじいちゃんと朝食をとった坊やが門を出ると、いっしょに通学するためにお隣の女の子(?)が道ばたで待ってる感じとか、坊やの父親らしき覆面レスラーが食卓にぽつんと取り残されてる感じとか、そのしがない生活のたたずまいがとてもいいんです。こういう演出をみせられると、映画監督・松本人志をひといきに信じたくなります。ここでは、ちっぽけさが画面の豊かさとしてあります。終局に向かうほど、構想は壮大なのにVFXに頼った画面が貧相だったりするけれど、そういう残念な点をふくめて映画が愛しくなります。

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*1:前記事で熊井友理奈BaseBallBearスポットCMに目配せしたのは、『しんぼる』の前振りにしたかったからです。あの純白のシャツと赤い血しぶきを、『しんぼる』の純白の部屋と赤い寿司ネタに対応させたら、という思いつきからですが、そんな前振りは結局、読んでくれる方を限定するだけだよねと思い直し、先に更新しちゃいました。でも、「横断的」なんて大層なものではないけれど、既成の階層秩序をシャッフルして興味まかせに技芸・芸能のフィールドをデコボコ横滑りさせてゆくやり方がわたしは好きみたい。