身すぎ世すぎ。

映画、演劇、HELLOが3本柱の雑感×考察

松本人志の『しんぼる』 感想(再考)

笑いの神様の仕業? 内部と外部を結ぶ回路のねじれ方。

  • 『しんぼる』を観てから10日ほど経ちます。今日が初日ですね。あれから観た映画では、なんの曲だっかか、そう、いきなりタイトル・バックにディミトリ・ティオムキンの「遙かなるアラモ」が大音量で流れるタランティーノ×ブラッド・ピットの評判作『イングロリアス・バスターズ』(11/20公開)が、なんとマカロニ・ウェスタン×ヒッチコック(白いミルクの使い方!)仕様の対ナチもので、連合軍の隊長というよりごろつきのボスというべきブラピがドン・コルレオーネ風のイタリア人に成りすまして敵のパーティに潜入するバレバレの無様さなど爆笑できます。ナチ占領下フランスの映画館を舞台にした極秘作戦の、映画狂タランティーノならではのゴージャスな演出にも震えてしまいます。フランス、劇場、ゴージャスとくれば、ワイズマンの『パリ・オペラ座のすべて』(10/10公開)です。世界の頂点をなすバレエ・エリートたちが難易度マックスの振付に苦戦するリハーサル風景などカメラがそこに存在しないかのような臨場感ながら、すべてのショットが構図も照明も揺るぎない。歴史あるオペラ座のリハーサル室の空間性がすでに絵になる有利さはあるももの、どうしてこんなことが可能なのでしょうか。しかも完璧さそのものより、完璧を求めての軋みというか息づかいがダンサーの肉体にもフィルムの肌にも濃密に漂っていて、その奔放さにこそ驚かされます。いま公開中の映画なら、屋内の暗がりから屋外の光への移り行きが特徴的なエルマンノ・オルミの『ポー川のひかり』でもトニー・スコットの『サブウェイ123』でもいいのですが、そういう映画的豊穣さのそばにいたいと一方では望みつつ、それがわたしには過ぎた贅沢のようにも思えます。で、そういう贅沢さには属さない『しんぼる』のことがいまだ頭から去りません。
  • 松本人志インタビューは、なんとなく居心地が悪そうな『CUT』より、まっちゃんにとって連載ものをやってた庭でもある『週刊プレイボーイ』のほうが面白かった。白い部屋の設定をめぐっては、こんな風に語っています。「イメージは、昔話の寺の小坊主が、いろいろななぞなぞを仕掛けてくるみたいなもんですね。主人公は、彼らが仕掛けてくる“謎かけ”に自分自身が試されているんです」。見えない「彼ら」は白い部屋に理由もなく閉じこめられたパジャマ男より超越的な位置にあります。出口不明の内部に向かって超越的な位置から意識が謎をかけるというあり方は、『マルコヴィッチの穴』にはじまるチャーリー・カウフマンの連作ものに連想がいくひともいるでしょう。でも、カウフマンの映画群が(とくに最新作『脳内ニューヨーク』に顕著なのですが)「私」に謎かけするメタレベルの「私」、そのメタレベルの「私」に謎かけするさらに高次の「私」、と自己意識が内へ内へと「私」の世界を巻きこんでゆく(自問自答の無限循環)のに対し、パジャマ男にとって「彼ら」はあくまで何を企んでいるのかわけがわからない、よそよそしいよそ者なんです。もしかしたら、「彼ら」は何も企んではいず、パジャマ男をもてあそんでいるだけかも知れない。実際、パジャマ男の哀願もツッコミも「彼ら」には一切通じません。ごめん、とか、おーい、とか短い間投詞をパジャマ男が投げかけても、言葉はついに一方通行。もしかして、「彼ら」は単に居ないのかも知れない。居ても、意思疎通ができない異星人なのかも。だから、事態は発狂すれすれの無言劇、いや無言コントとして推移します。
  • 松本人志扮するパジャマ男が彼らを「昔話の寺の小坊主」みたいな存在として、超越者(神)であれせいぜい悪童じみたイタズラ天使としてかろうじて認識するのは、握り寿司やら大壺やらヒモやら箸やら黒人ランナーやら、一見とりとめもないアイテムの組み合わせに脱出の方図が隠されているらしいことに気づいてから。パジャマ男がイヤイヤ*1 じゃなく、いくら失敗してもごっこ遊びみたいな苦役を果敢に繰り返すのはそれからです。第一の脱出をやり遂げ、みずから超越的な(笑いの神様の?)位置から、パジャマ男が世界に影響を与えはじめるさまには呆気にとられます。人間界の混乱のすべてを知っているのに人間界を見守るしかない無力な(全知だけどかぎりなく無能な*2)天使をかつてヴェンダースは『ベルリン・天使の詩』で描きましたが、イタズラ天使と化したパジャマ男は世界の仕組みも世界の操り方も何も知らないまま、小事から大事まで奇跡とも気づかれない「偶発性」を呼び起こして世界をかき回すのです。これは世界をより良くする能力ではなく、世界をより面白くする異能ですね。
  • 頭突きが一撃する。撃たれた弾が頬をかすめる。ゾウが倒れる。建物が倒れる。ロケットが火を噴く。ヘビメタ歌手が火を噴く。犬男がワンと鳴く。はてさて、一見とりとめのないアイテムの組み合わせにどんな脱出の方図が隠されているのでしょうか。それに気づいたとき、パジャマ男は第二の脱出をやり遂げるのか? それは悪童じみた笑いの神様の、どんな境地になるのでしょう? あるいは、もはやそこにはなにも隠されていない、という視点もあり得ます。内部に閉じこめられていたパジャマ男は、決して内面化できない、つまり超越的に見ることができない世界の不透明なとりとめのなさを足元に感じることで、ようやく世界という外部に踏みだすんです。あるいは、もうひとひねりさせると、なんだか全体が松本少年の分身みたいなハニカミ屋の坊や、覆面レスラーを父にもつあのメキシコの坊やの夢想のようにも見えてきます。水玉模様のパジャマを着たおかっぱ男の少年性。悪戯なチンポコをもつイタズラ天使の少年性。どうやら隠し味は「少年性」といえそうです。

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*1:そこに案外イヤイヤでもない嗜虐性の可笑しさもあるのですが。

*2:あるいは、人間にただ寄り添うことが、天使の有能さというべきかも知れません。