身すぎ世すぎ。

映画、演劇、HELLOが3本柱の雑感×考察

サンクユーベリーベリー 9/21夜(池袋)

  • 「はるなつーっ♪のツーッ♪が好きだからって、ツーッ♪で止めちゃったら歌じゃなくなる」と嗣永桃子演じる眞佳ちゃんが言うように、葉脈が波打ちながら青・青緑・緑・深緑の諧調をなすシンメのセットに繰り広げられる、この音楽劇の感想を言葉でつなぎ止めようとすると、寄せては返し、沸き上がっては砕けるその活きのいい生命感、律動感の大方をだいなしにしそうでひるんでしまう。作・演出のオトムギ塩田泰造さんは、エッグ(前田憂佳福田花音、元メンでは岡田ロビン翔子)でも℃-uteでも、思春期前後の女の子を大人にはない特別な「感覚受信者」として、日常の小さな冒険物語に生かすのがめっぽう上手い。塩田さん自身、「もうひとりの子供」を自己のなかに保持し、それを創作の泉にしてるのだろう。新作『サンクユーベリーベリー』ではBerryz工房のキャラクターや関係性をネタに至るまで研究し、アテガキによって虚実こもごもの劇空間にオーガナイズしてみせる。下手すりゃファンへのおもねりで終わってしまうギリギリの地点で、座長Berryzをふくめた役者が役と切り結び、役と役が関係しあう緊張感、そこから生まれる幸福感が一切を救っている。ゲキハロの一大成果である。ゲキハロはいい加減もうつき合わなくてもいいかな、って思っていたのに。
  • 菅谷梨沙子演じる学子(さとこ)は、いままで「永遠の子供」*1 として生きてきた。弁天女学院合唱部の部長・果菜(清水佐紀)に先輩かおり(佐野香織里)、幼なじみの葉子(須藤茉麻)に妹ベタベタのお兄ちゃん(宮原将護)。まわりに大好きなひとがいて、なんでもわがままをきいてくれる。少しばかりイヤなことがあっても、体を揺すって甘えればなんとかなった。常勝弁天合唱部のエースとして、世界は自分を中心にまわっていた。この当たり前の時間が永遠に続くと思っていた。そんな学子に「コペルニクス的転回」が起こるのだ。果菜は家庭の事情でとつぜん中国へ留学におもむき、かおりは鬼顧問(池田稔)と心が行き違って退部、お兄ちゃんは歌唱指導の晴子先生(森実友紀)といつのまにかデキていた。みんなわたしから遠のいてゆく。時間は、なんて残酷! みんなは私を中心にまわる惑星じゃなく、私の思いも寄らぬ時を生きている。私もまた時をめぐる星のひとつにすぎない。そのめまいのような認識。学子は学ぶ子供だ。ごねて泣いて呻いて、悲しみの果てにどんなに身近なひとであれ、引きあいもし退けあいもする「他者」であることを認識し、大人のとば口に立つ。大人のとば口に立つ「永遠の子供」という矛盾を、菅谷梨沙子はアンビバレンツ(不均衡)な15歳のわが身に引きつけてヒリヒリと、でもあくまで「愛くるしく」(by塩田さん)演じ、胸が締めつけられるほど。
  • 嗣永桃子演じる眞佳(まなか)は、いままで「小さな大人」*2 として生きてきた。4人の妹を養うためにアルバイトの掛け持ちをする苦学生で、同年代の友だちがいない。といって、それを苦にするでもなく、世間の風に擦れてしまうわけでもなく、おでん喫茶のダメ店主(中神一保)を手玉に取ったりサポートしたりしながら、ちょっと人間離れした真っ直ぐさで日々を送っている。年下の肉親ばかりじゃなく、出会ったばかりのアカの他人の想いをも中心に据えて、隅っこから役に立とうとする。おでん喫茶になんとなくつるんでいる丸富高校の脳天気三人娘、今日花(熊井友理奈)玲(夏焼雅)未知(徳永千奈美)の噛みあわない気持ちを、「アタマ悪いけどハートが最高」な合唱部結成へとつないじゃう。歌が好きな眞佳はそれだけで充たされるのだ。生活費には10円に至るまでシビアだけど、本質的に我欲というものがない。天使的な魂をもつ「小さな大人」という矛盾を、17歳の嗣永桃子は客席から舞台へと、ふらつき気味の新興合唱部から崩壊寸前の常勝合唱部へと、さらには世界の片隅から夢のさなかへと、アドリブも滑らかに神出鬼没の身軽さで体現してみせる。そういう特別な子が、ときに物語を導く語り部にもなって、いま、ここにフツーに居ると思わせてくれる。
  • 幼なじみの空手少女・葉子は、学子が立っていられなくなれば寄りかからせてあげ、行き場をなくせば「よかったら、ウチくる?」と誘ってあげる。梨沙子が「ママ」と慕ってきた須藤茉麻は、ここでは母代わり・服部葉子(はっとりはこ)として学子を庇護し、包容する。ときにもろ肌脱いで大人の防波堤にもなる。はつらつとして頼もしい。福々しい温もりがある。芸達者な大人たちに拮抗する、劇中きっての名バイブレイヤーと言ってみたい。もうひとりの名脇役、葉子の爺にあたる泣きべそ友庵(栗原久作)を交えた服部家の夕餉とパジャマ・トークのシーンは、学子の世界像が「転回」するきっかけとなる劇中屈指の名場面でもある。私だけ 何も知らないで とつぜん 果菜もバイバイ 二階のピアノ部屋のなか お兄ちゃんと晴子先生 ホットヨガ♪……「ダニー・ボーイ」の日本語替え歌、いつも自分を見送ってくれる視線への気づきを歌にした「忘れ物」が、替え歌の替え歌として、まずはイヤだイヤだと体を揺するような子供っぽい憤怒にまかせ、サビに入ると*3 自分が見送りそこねた友だちの気持ちへの気づきとなって口ずさまれるとき、サンマが似合う夜長に染み入るような学子の歌声とともに、劇もまたクライマックスに向けて静かに転回をはじめるのである。
  • 弁天合唱部と丸富合唱部が対決する決勝戦を前にした新生弁天チームのリハ・シーン――クライマックスへのブリッジとなるここも、核心を秘めた劇中屈指の名場面だ。「合唱がすてきなのは」と、丸富三人娘のハートのある計らいで弁天の新戦力となった眞佳は問いかける。「いっしょに歌っているひとの、もう消えてゆく声の響きを感じながら、聞こえてくる声の予感を受け入れ、その瞬間を生きているからじゃないですか」。「消えてゆく声の響き」(過ぎゆく時)に囚われていては、「聞こえてくる声の予感」(新たな時の訪れ)が失われてしまう。そのともどもをブリッジする「いま、この瞬間」というはかなく靱い流動体を、気持ちをふさがないで十全に生きること。「時間」という音楽をつむぐこと。そのとき、「永遠の子供」学子の音楽は「成長」という主題を奏ではじめる。チ・ヨ・コ・レ・イ・ト、パ・イ・ナ・ツ・プ・ルと大人の階段を上るように。転んで擦りむいて姉を頼る妹を気遣いつつ、いま大事な時間を過ごしているから「泣かないで……お姉ちゃんにちょうだい、いま、この瞬間を」とお願いする眞佳の携帯の会話と、「私、時間を止めたかったんだ」と葉子に言う学子の気づきの涙が、映画でいうクロス・カッティングのようにひそやかにリンクする。塩田演出のうるわしさが最高度に発揮されている。
  • 学子はひとつひとつ気づいてゆく。眞佳はそうと気づかぬまま一歩一歩、夢の現場に近づいてゆく。「アノコウタ」決勝戦、いつも隅っこにいた眞佳のエンジェリックな魂がまんなかで振動し、ハーモニーを奏でるとき、彼女はやっと気づくのだ。まなか、ここに来たことがある、ここはまぶしい、と。3ヵ月前、繰りかえし見て絵に描いた「小さな大人」眞佳の子供ごころ=夢の具現。その瞬間、歌合戦は7人の少女のコスモスへと昇華するのだ。『サンクユーベリーベリー』の脇を支える、どこか大人になり切れないやんちゃな大人たちは、子供たちのジグザグの成長を、どうか「忘れ物」をしないようにと、まぶしく見守る存在だ。そのまぶしさを身に受けながら、子供たちの成長力にはかなわずとも自分も少しは成長しようとあたふた空回りする存在でもある。子供からすれば、大人は成長を止めてしまった生き物なのかもしれない。消えてゆく声の余韻 生まれてくる声の予感 その間の一瞬 せーので飛び出す言葉♪ まぶしさを身に受けて、7人の言葉の音色を身に受けて、観客であるわたしたちもまた笑いこけたり涙ぐんだりしながら、少しは成長しようとあたふたしてしまう。そこに観客を巻きこむ塩田演劇の一連の「思春期」シリーズの要諦もあるのだろう。そろそろ大阪での千穐楽がハネるころですね。事故のない大団円を祈念しつつ……。

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*1:Berryz工房結成以前、菅谷梨沙子の初主演となった伝説のブラック・ホーム・コメディ『湘南瓦屋根物語』の詩子の面影を想起せずにはいられません。

*2:Berryz工房結成以前、嗣永桃子の初主演となったファミリー・ピクチャー『仔犬ダンの物語』のもっとも映画的なシーンのひとつ、同級生の清水佐紀と川の上流でお別れについて語らうシーンで、澤井信一郎監督は「岩の上に仰向けに寝て、両手を頭の下に組み、伸びた足の片方のひざを曲げる」という大人っぽいポーズを桃子にあえてつけたと言います。嗣永桃子はキッズ加入当初、この映画の役のみならず、インタビューの受け応えもずいぶん大人びた少女でした。

*3:「たったいま思いついた系」による学子のサビの歌詞は ちっとも気づかなかったよ 言えなかった果菜の気持ち ちっとも気づかなかったよ♪