身すぎ世すぎ。

映画、演劇、HELLOが3本柱の雑感×考察

金色のコルダ 3/24 夜 千穐楽(天王洲)

  • 「選ばれたひと」であるはずの香穂子が、心のまま練習なしにヴァイオリンが弾けるという特殊能力を「魔法」によって与えられただけの「にせもの」だと自覚し、私は「にせもの」という意識に苦しみはじめる。それを全身でわななくように演じきった第二幕の森咲樹に、心を激しく連打される。ひざまづいてプレ・コンクールをくぐりぬけた短い間、心の友だったヴァイオリンを手放すとき。きみのおかげで「普通のひと」が音楽に興味をもちはじめたんだ、とOB王崎に諭され、ヴァイオリンをもう一度弾きたくて妖精に呼びかけるとき。虚空を見つめる香穂子の思いつめた表情をスポットライトが捕らえる。そして暗転。暗闇のなかで涙がこらえきれなくなる。
  • 「好きとか嫌いとか、そんなのくだらない」って、クールで独立独歩で香穂子につれなかった気位の高いヴァイオリニスト月森が、香穂子が孤独を感じるとき、なぜかそばにいてくれる、というのがこの段になって生きてくる。たしか月森はジュール・マスネの「タイスの瞑想曲」を、香穂子はショパンの「別れの曲」をプレでのヴァイオリンの課題曲にしていたはずだが、そんなふたりの「ヴァイオリン・ロマンス」というデュエット・ナンバーは本篇オリジナル曲中屈指のバラードだ。三上俊と森咲樹の声の相性も良く、体ごと持っていかれそうになる。「選ばれたひと」であり「普通のひと」でもある思春期の男子と女子の透明な悲しみに触れた気がしてゾクッとする。
  • 「魔法」が切れる、「にせもの」がバレる、というファイナルでの香穂子最大の危機を、演奏=歌唱の途中で音程がはずれる緊迫感に置き換えたのは、ミュージカルならではの趣向といっていい。脚本・演出上の欠点が目立ちもした舞台『金色のコルダ』にあって、クライマックスのスマートな演出にはうれしくなった。ヴァイオリンが調子っぱずれになるのを、歌の音程がはずれ、声が出なくなり、長い休止符を置いて「魔法」が切れたまま音程=私だけの澄んだ音を取り戻す、という緊迫の演技で表現してみせた森咲樹にも、マックスの喝采を送りたくなった。
  • 千穐楽、ダブル・カーテンコールで涙と鼻汁にまみれ、そのいっしょくたが喉元まで降りてすすり上げるようなブヒッという音を会場に響かせ羞恥にまみれた森咲樹は、未熟者の私が座長なんてほんとに申し訳なかったけど、たくさんのひとに支えてもらいました、とそれでもしっかり挨拶してみせた。「未熟者」というのは、たしか香穂子の台詞にもあったはず。適役をもらえてよかったね。主役の座に「選ばれたひと」森咲樹も、ふと自分はそれにふさわしくない「未熟者」という意識にさいなまれたりしつつ、舞台という「魔法」にかかる。「魔法」が切れていまは放心状態かもしれない。でも、そのあと、彼女が女優として歌手として、どんなホンモノのとばぐちに立つのか?! 長い休止符を置いてちゃんと見届けたいと思う。

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