身すぎ世すぎ。

映画、演劇、HELLOが3本柱の雑感×考察

タイガーブリージング 感想 完結篇

  • 上手は三姉妹が暮らす暖かい芥子色のカウンターキッチン&リビング。下手は賊らしき連中と女子高生がうごめく灰青色のメゾネット。奥の階段で中二階に通じていて、この目隠しされた小空間がいっそう怪しげです。映画なら覗く側(上手)と覗かれる側(下手)がカットバックで交互に描かれるところですが、互いのまなざしを真正面に感じながら、覗かれる側のアクションと覗く側のリアクションを同時に受けとめ得るというのが舞台表現ならでは。しかも、鮎美には幼少期の特異な来歴から読唇術の隠しワザがあり、声の届かないお向かいの会話(パントマイム)の唇を読むという行為が意味のズレをはらんだり、局面に応じて変奏されたりして物語を動かしてゆくのです。ケッサクなのは、ピザの配達という職を利して横浜がお向かいへと偵察に出向くとき、彼の秘めごとまでを鮎美が唇を介して読んでしまうこと。ピザ屋見習いとして偵察隊に加わる探偵2号ナサケ(宮原将護)とは、たしか鮎美の特製麻婆丼の試食に際して新婚夫婦の一景みたいな唇の小ネタもありました。さらには、お向かいのただならぬ気配に鮎美が拳銃を携えて単身乗りこんだときのオチ――さながら「唇から愛をちょうだい」(by美勇伝)を思わせる、四肢をなまめかしく崩してのケモノのポージング! 『裏窓』のグレース・ケリーは、うたた寝から目ざめたばかりの車椅子の主人公にぬうーっと唇を寄せてキスを仕掛けます。その目眩のような半覚醒状態のエクスタシーが、彼女をクール・ビューティのお嬢様スターから神話的な映画スターに引き上げたといってもいい。殺意にのぼせた横浜を鮎美が身を挺して守ろうとするうるわしい回想シーン、舞台の異空間を瞬時に横切り横浜を横抱きにする目眩のような鮎美の振る舞いは鳥肌もので、横浜のとめどない呪詛を鮎美=石川梨華がうむを言わせず唇で封じる幻の景色までが浮かんできました。

  • 唇を読むばかりでなく、唇に凍りついた恐怖のありかまでを読み取ってしまう鮎美を、横浜は「神の子」と呼び、その親衛隊であることをなによりの歓びとしていました。でも、鮎美もまたトラウマに囚われた「人の子」だった、というふうに物語は舵を切ります。トラウマにまつわる心理劇、克服のドラマは珍しくないけれど、『タイガーブリージング』が凡百より可笑しくて哀しくて力強いのは、それを都会の小さな神話のような「虎の物語」に変換してみせたことにあるのだと思います。そこで、もうひとりの主役として俄然舞台に存在を際だたせてくるのがナサケです。ナサケ(情)はまず気弱そうな美男探偵として三姉妹のお気に入りとなり、次に鮎美命のライバルとして横浜に宿命の戦いを挑み、最後に子供時代の鮎美にツメを立てた天敵ジョー(情)として蘇ります。二弾ロケット式に豹変して、ついに「虎」の本性を現すのです。元バードウォッチャーという新米探偵ナサケは、『サンクユーベリーベリー』の妹想いの泣き虫お兄ちゃんがそのままこっちの舞台に迷いこんできたようだったのに。この変身シーンが胸を打つのは、単にジキル博士がハイド氏に姿を変えるのではなく、鮎美にいまだ金縛りの恐怖を呼び起こす虎の本性そのものが、溢れだす愛をまがまがしい凶行でしか表現できないという哀しい二重性を担っているからでしょう。淋しく渇いた無機質な空間で、長らくくすぶっていた灰のなかの熾火が不意に炎を上げるようにこれを演じた俳優・宮原将護の、ツヤのある殺気に震えました。ここでは、「愛」と「恐怖」は対立項ではありません。愛の底に恐怖がひそみ、恐怖の底に愛がひそむ。ほら、人々を閉じこめて延焼する深夜バスの窓ガラスを、恐ろしげな虎が躍り上がって割り、悠然と去ってゆきます。

  • 恐怖をもたらす尊大さと、「人の子」の恐怖の呪縛を解こうとする愛。そういう虎の裏腹の本性を、かりそめに「父性」と言い換えてみましょう。たとえば、愛情表現を知らないジョーの中傷癖や暴力癖は、彼が好きで嫌い・嫌いで好きな父親にどうしようもなく似てしまったからじゃないか。ゆがんだ父性……。そのダメな父親が去りぎわに子の頼みを聞いた唯一の罪滅ぼしは、ジョーに傷を負わされた鮎美に窓辺の椅子をこしらえて贈ることでした。鮎美はそれを、会ったこともない実父のクリスマスの贈り物と思いこんで大切にしていました。不在の父と子の関係は、ねじくれ断ち切れそうになりながら、かろうじて「父なるもの」の幻影として繋がっているみたいです。そういえば、この舞台には母親が登場しない。料理の苦手な鮎美のちっちゃいけど画期的な様変わりを受け、母代わりらしき姉ふたり(大澤桂子、橋本美和)がこれで妹に小料理屋を託せると喜ぶ素敵なエピソードが終幕*1 にありますが、どの家族にも母は影も形もありません。「母なるもの」などいう贅沢は、先にこの世界から消えてしまったかのよう。そのとき、希薄な存在だった父は、自分が知らぬ間に試練に立たされていた子との繋がりをいかに取り戻せばいいのでしょうか。中年探偵タカナシが女子高生・都(仙石みなみ)の父と知れるシーンは胸ぐらにきゅーんときます。その瞬間、疑惑の現場を「覗く」といういささか後ろめたい行為が過去にさかのぼって、父が娘を遠くから「見守る」愛の行為へと反転するんですから。

死、あるいは歌

  • ジョーの天敵でもあったモヒカン男・玉見(並木秀介)をリーダー役に、乗り合わせたバスのなかで都たちは、恐怖を鎮める気休めのゲームをします。街のリアルが遠のいてゆき、間近の「死」までの刻々を永遠のお休みのように感じつつ。救助はついに来なかった。そう彼らが語るとき、バス横転・炎上の危機という「死」を媒介にしたこの擬似家族的な合宿は、果たせなかった約束を果たす幽霊譚のようにも半ば思えてきます。決して写真に写らぬまま玄界灘を泳ぎ去る父なる虎が、大いなる幻影の気味を帯びるならなおのこと。隣人たちもわたしたちも彼らを覗いていたつもりが、彼らに見つめ返されていたのかも知れません。ぬるめのジャスミンティで優雅にもてなす謎の中国人・陳鷹(深寅芥)も、なんだか情婦(イロ)っぽいバンド系ピュア・ガール・楓(村上東奈)も、大人をタジタジやりこめる勘の鋭い気まぐれ猫系女子高生すばる(吉川友)も、すばるの親友で焼きそばを別物にアレンジしちゃうおっとり猫・都も、清らかな心をもつ野獣・玉見も、それぞれに血が通っていて愛しい存在です。だから、あとひととき、ともに語ってよ! かるがると戯れてよ! そうして細胞も魂もゆっくりと鎮まるがいい。そんなこちらの勝手な思いこみと願いにレスを送るように、舞台は劇中歌による擬似家族5人組のうきうき愉快なソング&ダンスとなります。それが鎮まると、上手から鼻唄が聞こえてきます。鮎美が同じ「奇跡の虎」のフレーズを口ずさんでいるのです。天敵ジョー=ナサケが父に託した物とわかっていながら、なお大切な窓辺の椅子に腰かけて。熱いものがこみ上げてきました。体が痙攣するほどの過去のくびきとの、心に跳梁する虎の恐怖との、しなやかな和解のかたち、たおやかな跳躍のかたちを、「りきみが抜けた自然体」で、舞台空間から鮎美が胸元のあたりに投げかけてくれる心地がしました。窓が似合う鮎美は、大いなる悲しみを湛えた新生児のようでした。*2

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*1:一生に一度の一日の終わり。

*2:ひょっとしたらこうあり得たかも知れない自分としての横浜に鮎美を託し、ジョー=ナサケは身を引きました。横浜も、「神の子」の鮎美に一方的にぬかずく親衛隊としてじゃなく、同じ「人の子」として地上を生きるパートナーに変身してみせました。鮎美はさりげなくこう言います(それは他ならぬ娘。時代の石川梨華の名台詞でもあるのですが)。「人間って変われるのね」。これもまた夢のようなリアル。