身すぎ世すぎ。

映画、演劇、HELLOが3本柱の雑感×考察

星砂の島のちいさな天使  感想

表バージョン

  • ある朝、竹富島の砂浜に打ち上げられた謎のヒロイン美海(飯田里穂)はファンタジー界の血を継いでいる。とするなら、ヒロインと人魚伝説のつながりを直観的に見ぬき、あの女に近づくのは悲劇の元だよって幼なじみの瞬一に伝えようとする島の中学生ユカは、現実界から異界を見通す感受性をもった少女といえるだろう。たとえ、8歳年上の瞬一に憬れを抱いているユカの行いが、幼い胸にゆらめく嫉妬心からくるものであるにしろ。前田憂佳演じるユカは天使じゃない。スパイごっこみたいに物陰から「人魚姫」を偵察し、田舎道で体をくるっとターンさせ、手強い恋のライバルにも瞬一にも届かぬまま、肩を小刻みに揺すってぷりぷり毒づく。南国の風と光を受けたセーラー服姿の勝ち気な島娘ぶりがひたすらまぶしく、微笑ましい。ついには美海を窮地に追いこみ、昏くなった海にひとり叫ぶ。あたし、悪い女になったのかな? あたしのバカ! って。海の舟の上からカメラを構えているのだろう、波打つようなユカのロングショットが印象的だ。
  • 11歳の遙(はるか)は笑顔をなくした都会っ子。付き添いの姉(矢口真里)に連れられ、島の「留学生」としてユカの家にホームステイする手筈らしい。島のツアー・コンダクターが先導する一行から遅れぎみに、うち沈んで山道を歩く遙。ふと立ち止まる。道を逸れるとそこは鬱蒼たる森だ。その森の精霊たちが呼ぶ声に耳を澄ます様子。ここの宮本佳林扮する遥の無言のたたずまいには雰囲気があり、その後の展開に期待を抱かせる。実際、おしゃべりに余念のない大人たちの視界から遥はぷいと消えてしまい、『ピクニック・アット・ハンギング・ロック』の少女たちのような神隠し騒動を巻き起こしちゃう。本筋の傍流となるエピソードだが、なんだか面白くなりそう……。
    • ここまでが、『星砂の島のちいさな天使』がわたしに興味をつないでくれたところです。もし、前田憂佳ファン、宮本佳林ファンの方で映画を観たくなったなら、以下を読まずに映画館(本日初日)へお出かけください。ちなみに、ワンシーンだけ登場する小さな観光客として、金子りえは、観光課の担当さんに島の総人口は? 産業は? と矢継ぎ早に質問する勉強熱心な学級委員タイプ。佐保明梨は、お洒落なお店は? とか、ダイビングのインストラクターにイケメンはいる? とか聞くドライなシティ派。竹内朱莉は佐保ちゃんの子分みたいなおすまし屋の女の子。だったように覚えています。観たのは3週間ほど前ゆえ、その辺ちょっとうろ覚え。

裏バージョン

  • ユカ(前田憂佳)はヒロインを陥れようとして悪ガキたちを浜辺に誘導するのだが、可愛い子を物色中のはずなのに、観光客の悪ガキたちは人気のない場所でユカという可愛い島娘に偶然出合っておきながら、それをスルーしてノコノコ浜辺へ出かける。そんなこと、あり得るだろうか。シナリオの設定が甘いのか、それを律儀に受け入れる演出が甘いのか。これは一例に過ぎない。たとえば、役場の観光課に勤める瞬一の兄が、ヒロイン美海を厄介者扱いしながらミス人魚として観光に利用しようとするなんてのもリアリティ・ゼロ。あるいは、裸足のユカが波打ち際で貝殻かなにかを踏んで人知れず鮮血を流す、ヒロイン美海がそれに気づいて「人魚」の治癒力で助けてあげる、ユカが美海の胸で悔いて泣く、というくだりなんて、いかにも思春の色香や息吹がひたひた寄せては返すようなシンボリックで美しいシーンになりそうではないか。なのに、特殊能力が危機を解決する安易さやVFXの安っぽさばかりが目立ってしまう。以後、ユカの登場シーンはない。あの神隠し騒動にしても、笑わない遥(宮本佳林)が浜辺で島唄安里屋ユンタの踊りに笑顔で加わっていた、というなんの工夫も緊張感もない終わり方。以後、遥の登場シーンはない。
  • 本筋である美海と瞬一のロマンスは、結婚、離反、そして海を介した新たな結びつきへと「人魚伝説」とダブルイメージで展開する。しかし、観光を産業のカナメとする島の生活とファンタジー有機的につなぐものとしてロマンスが機能していない。おのおのの要素がペラペラのまま遊離している。だいたい、3週間の竹富島ロケを敢行しながら、ベースとなる島の暮らしから立ちのぼるものがない。あの独特の生活のリズムがない。長州力という得がたいキャラクターを、頑固だが心優しい牛飼いの役にせっかくキャスティングしても、苦労人の味も生活感のカケラも引き出せないなんて! 「笑顔」がテーマだという。それなら、笑いを小手先で操ろうとせずに、もうちょっとナチュラルに、生きた時空としてお願いします。笑顔が大事、なんてドラマの演壇でわざわざ言葉にして、大上段にメッセージを振りかざすなんてダサすぎる。演出のまずさをメッセージで上塗りしてるみたい。多くの島の人々の善意に支えられているはずなのに、バックの海や森はときおり離島の記憶へと誘ってくれるのに、「感動」も「癒し」も、笑顔さえもがつくり物めいてみえてしまう。あるいは、善意だけじゃ映画は撮れない、ということか。監督は『星砂の島、私の島』の喜多一郎

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