身すぎ世すぎ。

映画、演劇、HELLOが3本柱の雑感×考察

怪談新耳袋 怪奇「ツキモノ」「ノゾミ」 感想

  • どきどきした。第一話『ツキモノ』と第二話『ノゾミ』がみごとな対照を成している。動のなかで身動きがとれなくなる一話、静のなかで脈打つものがある二話。世界が干からびてゆく一話、よどみのなかで沈んでは浮かぶ二話。青みの凍みる一話、赤みの沁みる二話。外へと増殖する一話、内へと浸潤する二話。悪化へ向かう一話、快方へ向かう二話。とくに、主演の真野恵里菜に加え、友人役の吉川友北原沙弥香が憑きものに襲撃される側として一瞬の光彩を放つ『ツキモノ』は、めざましい新趣向があるわけじゃないものの、贅肉を削ぎ落としたスポーティな演出でカッティングにもキレがあり、これならユニヴァーサルの古典的怪奇ものやロメロのモダン・ホラーを生んだアメリカへ持っていっても大丈夫だなと思った。7月アタマのLAワールドプレミア上映でも、さすがJホラーと唸らせるだろう。「アメリカ進出」という触れ込みの真野ちゃんも堂々と、あたしは女優よ! くらいの気持ちでプレミアにのぞめばいい。しっとりと内省的な『ノゾミ』もハッとさせるものが随所にあって好き。むしろ、つくり手の力点はこちらにあるようだが、終幕の詰めの甘さがいかにも惜しい。具体的には書けないが、第一話では走るヒロイン、第二話では立ちすくむヒロインと双方の孤独を生きて、映画のエモーション・ラインをきりりと支えてみせる真野恵里菜も、内攻していた感情を解き放つ『ノゾミ』のラストシーンにはいくらか課題を残したように思う。でも、たとえば『星砂の島のちいさな天使』みたく、女優・前田憂佳ならもっとやれるのにぃ、女優・宮本佳林ならもっとやれるのにぃ、って彼女たちの力量や可能性に対する「役不足*1 のフラストレーションが残るより、難役に正面から挑んで課題を残すほうがはるかにいい。今後につながる。
  • 脚本の三宅隆太は、これまでの真野恵里菜主演ドラマ中、少なくともわたしが観た範囲では際だっていた『東京少女 真野恵里菜』の第二話、《さよならお父さん》の脚本家だ。「ダニーボーイ」が胸に染みた。監督の篠崎誠は、なんといっても家庭劇『おかえり』の繊細さが忘れがたいが、ハチャマ・レーベルで手がけられた、ダメ男(田中直樹)が捨て犬をセラピー・ドッグに育て上げるという『犬と歩けば〜チロリとタムラ』にも小ぶりながら捨ておくには忍びない良さがあって、今回の起用はかなりうれしかった。アップフロントとは一度きりの関係じゃなかったのね。篠崎監督自身、劇場映画は『犬と歩けば』の後に草刈正雄主演の小品が1本あるのみで、4,5年ぶりとなるのでは? *2 今年は同時期に桐野夏生原作の『東京島』が公開され、撮影は『東京島』のほうが先だろうが、篠田監督は比較的バジェットの大きな『東京島』の企画時・撮影時の制約からくる未消化感にリベンジするように、映画への身軽なフットワークを確保しやすい『ツキモノ』と『ノゾミ』のほうに技量の丈をぶつけたのではないか。 それぞれ映画の仕上がりをみるかぎり、そう思えてしまう。公開は初秋9月の予定。*3 原作もTV版もまるで知らない人間として、以下、見どころポイントをメモ風に。

『ツキモノ』

  • 入院してる母の見舞いにかこつけてマスコミ関連就職の二次面接を受け、そこから遅刻ぎみに大学の講義に向かうバスのなか、という設定だろうか。高校以来の友だちはみな一次で落ちていて、一次に受かって二次にのぞむことをあゆみ(真野恵里菜)はまだ友だちに言えていない。自分だけ申し訳ない、という気持ちが働いている。余計な気を遣うヤツなのだ。この小さな胸のシコリが後で効いてくる。バスに乗りこんでくる裸足の女。長い黒髪を貞子風に前に垂らし、しゃっくりを繰り返す。その反動で床に吐き出される犬歯。のべつのしゃっくりがあまりに苦しげで、あゆみは下車の際に一声かけてしまう。これが運のツキとなる。「背負う気あるの?」。恐怖の幕開け。
  • あゆみはやさしい子。やさしさに潔癖のあまり、自分の偽善が怖いのかも。そんなんじゃない! と心で否定しても、テキトーに距離を置いてウチらとつき合ってるのね、って就職試験を抜け駆けしたことを友だちに突かれると二の句が継げなくなる。やさしさがアダとなってやましさになる。まわりには友だちがいるのに、友だちどうしの間に空隙がきわだってくる。そんな大学校舎の「空隙」にツキモノが取り憑く。上手いなぁ。徐々に孤立してゆくあゆみが、はじめから孤立していたひとりぼっちの女学生(坂田梨香子)にシンパシーをもって接近するのもいい。このやさしさもアダになるのだが……。
  • こういう背後にうごめく感情をあくまでさらりと余白を残したままに描いて、更けゆく校舎が空隙だらけになってゆく、そのなかでサスペンスとアクションに徹すること。それが、本作のなりよりの美質だ。間一髪の扉の攻防があり、俯瞰ショットで差しだされるヒッチコック的な階段がある。枯れ木の枝ぶりまで死相をおびて。ツキモノは窓に現れ、二律背反にあゆみを追いこみ窓に滅する? 捨て台詞の「偽善者!」という言葉は理不尽だが、大学生にしては潔癖症のあゆみには効くよねぇと思う。走りに走ったあゆみが壁際に追いつめられ、肩をあえがせて恐怖に震える持続的な寄りのショット。ここの真野恵里菜はすばらしい。「ホラーが苦手」の彼女は、恐怖に対して類型演技を一切しない。あゆみが投げだされた状況に応じてどっくんどっくんと心底おののいてみせる。ひとつひとつの感応の仕方に素早さがある。シンプルなオチでの、真野恵里菜の所作の冴えについては書かずにおこう。
  • ロッカーの暗がりに身を潜める吉川友の引きつった表情、闇に浮かんだ紅い唇の妖しさ。そして、待ちかまえる脳天ショック演出。ツキモノとあゆみの間で頭と足の引っ張りっこになり、体がちぎれそうになって悶絶する北原沙弥香の、悲鳴を生かしたちょっとコミカルな見せ場にも注目を。「どうしてあんたが手を放すのよーーっ!」には笑った。

『ノゾミ』

  • めぐみ(真野恵里菜)は誕生日が近づくと情緒不安定になる。ハッピーバースデーの鼻唄とともに現れる池、桟橋、溺れてもがく腕の、メルヘン調だが、ぬめっとしたイメージ。目覚めると、そこはベッドの上。めぐみがつかんだ自分の腕には手首に傷跡がある。自傷行為の痕か、それとも彼女が担った役目の聖痕みたいなものか。鮮やかなオープニング。強迫的な夢に現れる幼い妹が、赤いフード付きコートを着たままの姿で、めぐみの現実を脅かす。溺死した妹を救えなかったという罪の意識から心を閉ざし、娘の対応に気力の萎えかけたシングルマザーの母ともビジネスライクな精神科医とも心が離れ、引きこもっためぐみの希薄な現実にあって、赤をまとう少女霊の存在だけがやけに色濃く凋密だ。
  • めぐみに霊が見えるのは、特殊な霊能力ゆえじゃない。他者を慮(おもんぱか)り、見えざる他者である死者を慮るめぐみの想像力ゆえ、というのがこの映画のキモ。生きてる人の心がわからないひとに、死んだひとの姿が見えるはずがない、と「霊媒師」は言う。めぐみが引きこもるのは、他者の気持ちが見えてしまってひるんじゃうから。その心根のやさしさがもたらす受難を、真野恵里菜は物言わぬ「静」の姿で説得的に表現できている。女優というより、ひととしてのまっさらでひたむきな芯を感じる。やさしさという曖昧な資質が奈落をもたらすのが『ツキモノ』なら、『ノゾミ』ではそれが下降と浮上の動力源となる。
  • 浮上の動力。浮力。水。キー・イメージは水だ。シャワーの音、静寂、ぽちゃっという背後の浴槽の音、巻き取られるバスタブカバーの音、バスタブに張った水が抜けてゆく排水溝の音――音を生かしたバスルームの「気配」のサスペンス! 水はまがまがしさを呼びこみ、水は救いのきざしを呼びこむ。カーテン越しに幻視される水底。泉のように、霊媒のテーブルに湧く水たまり。翌朝、会話も食欲も欠いたいつもの母との朝食シーンで、繰り返されるルーティンからめぐみの態度に小さな変化が現れるくだりは、感情に抑制がきいている分、いっそうきゅんとくる。これが映画を円環的なクライマックスへいざなうのだが、ここについてはもう自粛しよう。めぐみが本好きという設定もよかった。図書館(赤い幻影に脅かされたゆるやかな横移動)が、めぐみと外界をつなぐ一筋の道になっていた。気が塞ぐめぐみに図書館で「ここが落ちつくの」と声をかけた女学生の淋しげな笑みが、ただの端役なのにやけに心に残っている。かたくなに鍵をかけた扉が、あそこでほんの少し開いた気がした。

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*1:しばしば誤用されるが、役者のキャパシティに対して役のほうが不足ということ。

*2:その間、篠崎監督は丹羽多聞アンドリウ氏の元で1,2本BS-TBS系のドラマを撮っているはず。今回の映画も、アンドリウ氏がつなぎ役を果たしたのだろう。

*3:東京島』は晩夏8月下旬公開予定。原作は歯ごたえ抜群。