身すぎ世すぎ。

映画、演劇、HELLOが3本柱の雑感×考察

ラヴ・レターズ 2012 3/12 感想

  • 実をいうと「リーディング・ドラマ」と名づけられた劇を、去年の12月に同じ真野恵里菜主演でわたしは観ている。共演は白濱亜嵐。新宿・紀伊国屋ホール公演のこちらはケータイ小説発の青春純愛ものだった。堤幸彦演出によるこの『もしもキミが。』は、雪の純白を基調にした舞台を起点にして二人の演者が客席通路を行き来し、ト書きを交えて台詞を双方演じるように読んでゆく。バイオリン・ソロの生演奏がピュアな悲恋のムードを盛り上げる。けれど、いくら「純愛」と言いつのっても、客の涙をしぼることを目的に(「ハンカチご持参でご観劇ください」)難病を手段としてのみ利用するというのは、安易で「不純」な物づくりというそしりは免れまい。そんなもんに泣けやしない。ただ、声を届ける、という若いふたりの演者の真摯さだけは伝わってきた。まだ未体験のリーディング・ドラマの可能性が、きっとあると思った。
  • 『ラヴ・レターズ』の舞台には、中央の丸テーブルをはさんでレトロ・モダンな椅子が2脚。足元は薄茶のカーペット。背景は黒い格子。バロック音楽が流れるなか、舞台上手から女優、下手から男優が現れ、椅子に座って真正面の不動の姿勢で、ほとんど互いに目線を合わせることもなく手持ちの本を読んでゆく。舞台上に変化をもたらす転換や仕掛けや効果もなければ、目先を変えて演者が歩き出すような動きもない。ここでは余計な演出は一切しない、ということこそが演出のポリシーなのだろう。「演技」のレベルでも同じ。演者が読むのは台詞でもト書きでもなく、それぞれの役、アンディとメリッサが書いた手紙だけ。自分の手紙を読むのだから、演じるように読むのでもない。「演技」を封印されたまま、手紙をしっかり、くっきりと読む、その「声」のみを通して真野恵里菜鈴木裕樹も、字面どうりではない手紙の行間、書くことと話すことのズレ、書くほどに伝わらない想い、互いの距離と歳月までを客席に感受させなければならない。ストイックな難行ですね。
  • さらに、「脚本」のレベルでも同じことがいえる。A.R.ガーニーの原作を演出家の青井陽治が訳したものがそのまま台本となって演者が舞台上で手にしているわけだが、折々の手紙からなるそれは、手紙と手紙の間にどんな決定的なドラマがあったのかを直接には伝えない。幼い頃から相愛のアンディーとメリッサが大人のとば口に立ち、家庭環境の違いから別れ別れになって互いに異性の友だちもつくりながら、手紙を唯一の媒介にして慕情をつのらせ、ようやく体を重ねる機会を得る。でも、失敗しちゃう。なぜか? おそらく、ふたりが一線を超えるには遅すぎたのだろう。互いの違和までが見えてしまって、恋に燃え立つには時が経ちすぎたのだろう。とわたしは思ったが、別の感懐を持つひとも当然いるはず。わたしたちは、離別のドラマを目撃できるわけじゃない。「ドラマ性」を封印されたまま、アンディーとメリッサが読む事前と事後の手紙を通して、睦んでいても埋められない距離がふたりの間に生まれたことを想像力によって痛みとともに知覚するのだ。
  • 家が貧しくて苦学するアンディーは、海軍に入って日本に駐留するかと思えば、軍事経験をを足がかりに法曹界に飛びこみ、お次は司法の実績を足がかりに上院議員に当選してしまう。遠回りしながら、一歩一歩着実に階段を上ってゆく野心家。そういう役の手紙を、鈴木裕樹は本を膝元にかざして少し背中をまるめて読む。メリッサの率直な手紙に、少し肩をすくめるようなリアクションも。一方、裕福な家に生まれ、感じるままに生きているようなメリッサの手紙を、真野恵里菜は本を胸元まで持ち上げ、終始背筋をピンと伸ばして読む。その役の対称性と、演者の対称性がたすき掛けみたいで面白かった。ぼくには「書くこと」が必要だ、と学生時代のアンディーはいう(そう手紙に書く)。書くことだけが、人生という牢獄から、青春という牢獄からぼくを解放してくれる。手紙こそ私たちの癌なのかも、とメリッサはいう(そう手紙に書く)。あなたと会っていても、あなたの肩ごしに手紙上の幻想のあなたを見ようとしちゃう。手紙なんかより、男の誘いの声をダイレクトに感じられる電話の勝ちね。メリッサの手紙は勝ち気であけすけで無防備だ。セックスだのネッキングだの、といった言葉がポンポン飛び出すのをメリッサ役の真野ちゃんがポーカーフェイスで読むさまは、やけにスリリング! 巧まざる可笑しみがある。
  • 胸元の白い本。白いドレスからは素足が透けて見え、ときにメリッサの腹のうちまで覗けそうな気がする。『オズの魔法使い』の世界に住んでいたかつての少女は、大人になれない男をなじるように、ときに眉間のあたりが険しくなる。それでいて、アンディーとの逢瀬を期待してしまう。距離。苛立ち。求め。拒絶。期待は苦さに取って代わる。あけっぴろげで、プライドが高くって、もろさを秘めている。着実な歩みを積み上げてゆくアンディーに対し、メリッサには一気に駆け上って、一気に駆け下りるような危うさがある。生死のきわきわで胸苦しくなるような突発性がある。愛してる。逢いたい。怒ってる。逢えない。けれど、手紙という声のない媒体から読み取られたメリッサ=真野恵里菜の声の響きを、わたしたちは抱きしめることしかできない。その胸苦しさよ! 途中休憩をはさんだ後半。メリッサはアンディーとの岐路を経て別の男と結婚し、別れ、才気でこなしたアートの職にも50を越えて行き詰まり、再婚した母の家に身を寄せている。記憶があやふやだが、たしかそうだった。アンディーはまだ、上昇カーブの途上にある。メリッサは転げ落ちてゆく。アンディーに逢いたくても、相手には妻があり、しかもスキャンダル御法度の、政治家として大事な時期……。
  • 「死」はあっけなくやって来る。客の涙をしぼるためにそれを引き延ばしたり、盛り上げたりしない。事前と事後の手紙の朗読だけがあり、メリッサの死という事件はその間の時間経過として省略される。リーディング・ドラマは、「演出」も「演技」も「ドラマ性」もいさぎよく削ぎ落とした真骨頂にさしかかろうとしている。おそらく、このあたり実年齢に近いベテランの演者なら、そこはかとなくユーモアやペーソスをかもした膨らみのある朗読ができただろう。だが、実年齢20歳の真野恵里菜が、時の崩落に身をさらした50がらみのメリッサを凛として「読む」、もろさを溶かしたその真っ直ぐな強さにわたしは胸が熱くなった。死後、メリッサの母に向けたアンディーの手紙。メリッサへの積年の友愛が、秘められた「まこと」が、アンディー=鈴木裕樹の声を通して客席に届く。不在のはずのメリッサにも届く。メリッサから短い応答がある。書かれなかった手紙の応答。目を凝らせば、背筋を伸ばしたまま真野恵里菜が泣いている。客を泣かせるためではない。声のない手紙の声に反応し、メリッサの魂が涙をにじませているのだ。心をすれ違わせてばかりいたふたつの魂が交叉するようでもある。そのとき、舞台照明が静かに翳りつつあることをわたしたちは知る。切り詰めに切り詰めた演出だ。真の不動と静寂が訪れ、リーディング・ドラマは終わる。
  • カーテン・コール。メリッサ役の真野恵里菜は、微笑みつつ放心しているように見えた。アンディー役の鈴木裕樹が彼女に手を差し出して舞台ソデへと導く。接触はおろか、それぞれ真正面を向いてろくに視線も交わさなかったメリッサとアンディーが、舞台上で初めてやさしく手を取りあう、それはかけがえのない瞬間でもあった。「カーテンコールの後、袖にはけた瞬間力が抜けて、その場に座り込んでしまいました」と、公演後の真野恵里菜のブログにはしたためられていた。

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