身すぎ世すぎ。

映画、演劇、HELLOが3本柱の雑感×考察

さんかく (小野恵令奈、田畑智子) 感想

  • 真新しい胸の刻印をこのブログになんとか留めておきたいなって思いつつ不規則生活の身の上に足をすくわれ、結局、書けないまま時が過ぎていった作品がいくつもある。この春3月に池袋の東京芸術劇場小ホールで観た多部未華子主演の『農業少女』(作:野田秀樹)もそのひとつ。演出の松尾スズキのほとんど意地悪ともいえる、「犯罪的な年齢差」の中年男との艶笑的な密着演技や肉体酷使の演技に、初舞台となる多部未華子は少女スター的な自意識をかなぐり捨てて挑んでいた。まさに捨て身。蚕は「変態」する前、体が透きとおって光を纏う感じになるが、そんな新たな女優としての脱皮のきわの光を放射していた。舞台自体も素晴らしく、泣くようなお話じゃない、むしろ哄笑の劇なのに、スローライフだのロハスだの農業ブームに都会の人々が飽きて農業少女=多部未華子の声が誰の耳にも届かなくなるところなんて、やたら泣けた。その3週間後に『さんかく』を観た。『なま夏』『机のなかみ』『純喫茶磯辺』と、おもしろうてやがてかなしき映画を連発している吉田恵輔監督の新作だ。知る人ぞ知る存在から『純喫茶磯辺』でかなり知名度を上げたが、今回も思わずニヤッとしちゃう会心の出来だった。
  • 『農業少女』と『さんかく』には、物語の下敷きとなるものに隠れた共通項がある。ナボコフの『ロリータ』。あるいは、キューブリックの映画版『ロリータ』というべきだろうか。「ロリータ」を媒介にして両者を比較考察したいという無謀な衝動にかられるが、『さんかく』感想の小路からどんどん迷子になっていきそうなので、やめておく。ちなみに『さんかく』には、情けない30男の百瀬(高岡蒼甫)が、同棲相手とは14も年の離れたその妹・桃(小野恵令奈)に魂を抜かれながら、ロリコンとかそんなんじゃないからなっ、と自意識過剰の言い訳を後輩にするクスッと笑えるシーンがあるけれど、百瀬にその気があるにしろ、『さんかく』はロリコン映画じゃない。お腹に銃弾を撃ちこまれるような小説『ロリータ』の苛烈な魅惑が、ロリコンなんていう手垢にまみれたヤワな言葉と無縁のように。というか、子供っぽいくせに自意識過剰な百瀬だけじゃなく、百瀬とは1つ年下の同棲相手・加代(田畑智子)までが見栄っ張りで軟弱で、いい大人のツラしたそんな似たものどうしが恋だの愛だのの妄執に囚われて脱線し、暴走し、すれ違うのが、『さんかく』の複線的な新機軸だろう。あげくのはて、百瀬も加代もこっぴどい目に遭うのに、どこかで身から出たサビ、それでいいんだと甘受しているフシがある。難儀やなぁと思いつつ憎めない。ふたりと別々に、酒を酌み交わしたくなる。
  • 中学生活最後の夏休みだからと、田舎からお姉ちゃんの愛の巣に飛びこんでくる小野恵令奈扮する15歳の桃、というのも厄介な困ったちゃんだ。白の明るさに溶けるような軟調の、よくあるアイドル処方の生半可な画面処理を、吉田監督は決してしない。ナマの肉体に迫ろうとする。偶像としての魅力ではなく、スクリーンから圧迫感が伝わってくるほど「即物的」とでも呼びたい魅力があるから、余計に厄介なのだ。天然小悪魔だの、不吉な天使だの、イタズラ猫だの、無垢な罪つくりだのとキャラ・イメージを限定したとたんに、リアル少女の桃という実在は手元からすり抜けて言葉を霧散させてしまうだろう。桃はけだるく足を投げだし、眠そうにしゃべる。ごろーん、だらーんとスクリーンに投げだされたまま、はち切れそうな肉感、生命感。下着くらいつけなさい、って姉に注意され、ふと胸の膨らみを気にする仕草の生々しさ。あれは風呂上がりのシチュエーションだったか。部屋が狭くてオシッコの音が聞こえてしまう、というのも吉田演出独特のムラムラとした細部の軽みだ。下心いっぱいなのに、純なガキっぽさのある百瀬が、目の置きどころにも耳の置きどころにも困ってしまうのも無理はない。
  • 失恋中なのに、ひとりで道を歩いてるときに通りすがりの自転車男に叫ぶ間もなくチカンされ、桃はそのモヤモヤから姉の彼氏の百瀬を誘惑する。化粧台のお姉ちゃんのリップをくすねるのとおんなじノリで。どこまでが本気で、どこまでが嘘か。どこまでが無意識で、どこまでが意識的か。そんなの桃にもわからない。「だって子供だもん!」と桃なら言うだろう。百瀬をなびかせるのなんて簡単だ。ダサい愛車を誉めてあげ、ちょいワル自慢の昔話にのってあげる。お姉ちゃんに内緒で外食させてくれたなら、ほら、焼き肉臭いよ、と髪の毛の匂いを嗅がせる。誰も手伝わない家事やらなにやらに姉が苛ついていたら、ヒステリーってやだねぇ、って百瀬に笑いかけてそっと耳打ちする。彼になれなれしくするな、という姉への対抗心だってある。半ば意固地な計算づくであれ、それが百瀬にどれだけ絶大な効果をもたらすかはまるでわかっていない。純と不純が渦巻きながら一歩手前で踏みとどまっている桃と百瀬のいびつで非対称な関係は、ぶつかる手と手、視線と視線のいちいちにドギマギしちゃうほど映画的だ。とりわけ、そのピークをなす「不測の事態」ともいうべきキスシーンにはしてやられた。夜中にトイレに起きだした百瀬の行く手の暗がりに、ぼーっと浮かぶ。寝ぼけまなこで腫れぼったい桃のスッピンが……。そこからキスに至る短い推移を、人工的な粉飾をせず、鼓動が早鐘を打つままに捕らえてみせたカメラ、本番一度きりの勝負に賭けた素っ気ないほどの演出、それに応えた高岡蒼甫小野恵令奈の瞬発力。緻密に設計された名シーンとは対極の、至純と隠微が出し抜けに出合ってしまったような名シーンだと思う。
  • 小野恵令奈にとって、曖昧な笑みを浮かべて演技を見守っている吉田監督の最高の誉め言葉は「気持ち悪くてすごくいい!」だったそう。彼女は吉田映画の味わいを本能的に掴んでいるんだな、って思った。桃だけじゃない。加代も百瀬も気持ち悪くてすごくいい! そして、桃も加代も面倒くさいのに、ほっとけないくらい可愛い。百瀬に別れ話を切りだされて恋心のタガが笑っちゃうほど外れてゆく、加代役の田畑智子がスクリーンでこんなに輝いていたのは、田畑智子12歳のデビュー作『お引越』以来ではないか。思春期の少女の、子供から大人への波打ち際を神話のようにとらえた、忘れもしない故・相米慎二監督の最高作だった。感慨ひとしお。夏休みが終わって百瀬がこうむるしっぺ返しの、これまた笑うほかない悲喜劇性(割れた窓ガラスを踏んでしまうシーンの情けなさ!)、百瀬と桃という発音の類似性がダブルミーニングを呼ぶ、加代を加えた田舎の出来事についてはもう触れないが、あとひとつだけ。
  • 【以降、ラストの一解釈の大掴みな試み。未見の方は自己判断で進んでください】。。。。この映画は、百瀬と加代と桃をめぐる、ありがちな三角関係の葛藤劇ではない。誰も三角関係に悩んでなどいない。「三角関係」ではなく『さんかく』。桃という「ロリータ」のつっかい棒を失ってつんのめる百瀬のダメージを、加代はついに知らぬままだ。逆さまからみれば、桃は同棲2年で倦怠ぎみだった百瀬と加代の効き過ぎる刺激剤ともいえそう。3人でいるときは妄執と暴走の一歩手前でゆらゆら爪を立てつつ、意外と動的バランスがとれていた。いかようにもとれるオープン・エンディングの謎の微笑みは、そのことの「気づき」ではないか、とわたしは思った。夢見られたセイント・トライアングル(聖なる三角形)。気持ち悪くてすごくいい!

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