身すぎ世すぎ。

映画、演劇、HELLOが3本柱の雑感×考察

借りぐらしのアリエッティ 感想

  • ジブリ作品に詳しいわけじゃないけれど、宮崎駿さんや高畑勲さんが自分たちより若い世代に監督をゆだねた映画の系譜がありますよね。『海がきこえる』とか『耳をすませば』とか『猫の恩返し』とか『ゲド戦記』とか。そこに『借りぐらしのアリエッティ』を連ねると、その作品群で今回のがいちばん出来がいいなって。庭には可憐な花が咲きほこっているのに、どこか打ち捨てられたようでもある小世界。小人の少女と人間の少年、その禁じられた恋の、ほのかで温かな切なさ。光と暗がりの、雨と草いきれのすがすがしい抒情味。時を封じこめたような日本家屋の空間性と、祖母の世代にこしらえられた洋風ドールハウスの謎のしめやかさ。若い監督にありがちなメッセージの押し出しが、強くないのもいいですね。*1 幼いころ、地面に耳を擦りつけて縁の下を覗くのが好きでした。オケラとネズミとクモの巣と、ほかにも何かが居る気配がしました。砂糖水を撒いてみたり、宝物(といっても折れ釘みたいなものだけど)を隠したり……。
  • 14歳の小人の少女アリエッティは古いお屋敷の縁の下に両親と住んでいて、父親の先導で初めて「かり」に出かける。「狩り」ではなく「借り」。夜、人間が寝静まったころ、柱や梁をロッククライミングのように踏破し、生活必需品を必要な少量だけ借りにゆく。敷居に落ちていた待ち針を腰に差せば、好奇心旺盛のアリエッティはもういっぱしの少女剣士だ。小人の視線がもたらす人間の住処のスケール感が新鮮だから、台所に侵入して角砂糖1個をお父さんとの連携しつつ捕獲することだけで、日常空間は冒険アクションの空間に変容する。早くも引きこまれる。次は、寝室に侵入してティッシュを1枚獲る手はず。ところが、アリエッティティッシュ越しにベッドで眠れずにいる病弱の少年と目があってしまうのだ。動揺してせっかく確保した角砂糖までが床に落ちてしまう一瞬の動きにスリルがある。翌日、それに気づいた少年が、縁の下と庭の通路に「わすれもの」という手紙を添えて角砂糖を置いてやることも。来るべき物語の波音がきこえてくる。
  • このいきなりの事件が、アリエッティをめぐって2方向の波紋を呼び起こす。人間に目撃されると、どんなに居心地のいい永年の床下でも見捨てるほかない。それが小人一家の掟だ。アリエッティの親は3世帯あった家族の離散の記憶もまだ生々しいようで、人間に対して警戒心が強い。パパは勇敢だけど石橋をたたいて渡るほど慎重居士、ママはやりくり上手だけど超小心者、というキャラ設定が効いている。人間に見つかってしまった以上、棲み慣れたここを引っ越すことはもう避けられない。わたしのせい、とアリエッティは思う。いや違う、母方の叔母の家に転地療養にきた11歳の少年、あなたのせい! それが、あなたのおかげ! と変わるプロセス――小人の少女と人間の少年のひそやかな交流が物語のもう一極、メインストリームをかたちづくる。ツタのからむ瓦屋根伝いの潜入、小人を盗人あつかいしてママを拉致しちゃうお手伝いさんとのバトル。お父さんとの連携プレイは、アリエッティの単独行動から少年との鮮やかな連携アクションにとって代わる。心の動きがアクション=アニメーションに変換されている。うまい。
  • 小人は魔法を使えない。きみたちは滅びゆく種族なんだ、と少年はアリエッティに言う。アリエッティ自身、床下の小人はもうわたしたち家族だけになってしまったのでは? と恐れている。生活必需品を必要なだけ人間から借りて慎ましく暮らす小人の家族は、たとえば、お砂糖やお醤油が切れればお隣さんに借りにゆく(そのお使い役を子供が担ったりしていた)という互助の生活スタイルをもっていたかつての日本人、いわば「失われた人間」の合わせ鏡といっていい。けれど、一方で少年は、自身の「死」を予感している。両親が離婚した少年の家族もすでにバラバラで、そばにいるべき母親も仕事で遠方にいる模様。この屋敷自体が、地球上でぽつんと孤立しているふうでもある。滅びゆく種族なのはむしろ「いま」の人間のほうで、自然と生活を切り結んでしたたかに生き延びるのは小人=「失われた人間」のほうでは? そういう文明批評的な反転力を物語にさりげなく宿らせるには、人間への、愛に裏打ちされた「意地悪」なまなざしがいささか足りない、この愛すべき佳品にあえて弱さを挙げればそこではないか、とわたしは思った。あの悪気のないお手伝いさんだけに「意地悪」を担わせてしまうのもねぇ。
  • 以降の展開には触れませんが、終わり方に関しては、海にグレートマザーが現れるポニョよりも好き。メッセンジャー役のナマクラ猫がいい。角砂糖も、洗濯ばさみの髪留めもいい。薬罐型の舟もいい。

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*1:大抜擢となる監督は37歳の米村宏昌。メアリー・ノートンの『床下の小人たち』を、いまの日本に移し替えて宮崎駿丹波圭子が脚色している。