身すぎ世すぎ。

映画、演劇、HELLOが3本柱の雑感×考察

ぼくのエリ 200歳の少女  感想

  • これを観てもう1ヵ月以上経ちますが、まだ印象は鮮烈なままです。今日が公開初日(銀座テアトルシネマほか)となります。原題は『LET THE RIGHT ONE IN』。監督いわくモリッシーの「LET THE RIGHT ONE SLIP IN」からとったそうですが、日本語にすると「正しいものを受け入れて」ってふうに言えばいいんでしょうか。いじめられっ子の少年のアパートに同い年の少女が引っ越してきて、お隣さんどうしになる。孤独な少年はおずおずと惹かれてゆくんだけど、少女は永遠の12歳を生きるヴァンパイアだった、という北欧スウェーデンのお話です。
  • 真相を知って少年はさすがに拒絶の姿勢をとる。腰が引けちゃうんですね。そのとき、少女がガラスの扉越しに「私を入れて」って唇で訴えるのよ。たぶん、それが原題に通じているのでは、って思います。少年はいつもナイフを隠しもっているんです。ひと気がなくなくと、近所の樹の幹に「このブタ!」ってナイフを刺して憂さを紛らわせています。きみだっていじめっ子を殺してでも生き延びたいんじゃないの。心のうちに「ヴァンパイア」を隠しもってるよね。だからこの私という真正なものを受け入れて! そう少女は訴えたいかのようです。こういうシーンを観ると、胸をわしづかみにされてしまいます。一方ではイノセントでありながら、思春期に差しかかった者のセクシャリティが胸元にびんびん響いてきます。おそらく、そんな性的な意味合いも、原題と通じあっているのではないでしょうか。
  • 音もなく闇に降り積もる雪。氷の底に死体が埋まっている気配のする湖。あわあわとした北欧の光に映える樹氷。寒色系の情景ショットが素晴らしい。白夜のフォトジェニーですね。少年と少女が愛しあうと、その凍てつく空間が淡く色づく感じになります。冷えた窓にてのひらの温もりが貼りついて、くもった水滴となって残るあの感じ。あくせくした大人なら見逃してしまう、容易に踏みこめない世界です。少年の両親は、彼の経験の深みから隔絶されています。少女は流浪するジプシー(ロマ)のようにも、俊敏なケモノのようにも、幼さを残した老婆のようにも見えます。少年は女の子のような薄桃色の肌をしています。氷粒の上で手と手が重なる。重ねられた肌と肌は、除け者どうしが育むものを宿しています。排除されると、少女は全身から血を流すんですよ。スカートをたくし上げた少女の陰毛を、少年がふとかいま見て視線をそらす、という一瞬をとらえた美しい引きのショットがありました。こういうハッとするようなディテールが映画の命。抑圧しないでほしいなぁ。*1
  • この映画は、いじめられっ子の少年がヴァンパイアの少女との経験を通して一歩を踏みだし、自分を解き放つイニシエーションの物語と要約できます。でも、そういう成長と解放の物語からはみ出し、永遠の少年性のほうへと彼が封じこめられゆくような畏怖感もあって。北欧スウェーデンは、サイレント映画時代から「夢幻的リアリズム」の伝統をを育んできた由緒ある映画の国でもあるんですが、この監督トマス・アルフレッドソンはスウェーデン映画の遺伝子を受け継いだ真正の才能です。2年前の秋に全米で限定公開され、すでに世界中の賞をとりまくっています。『トワイライト』シリーズでヴァンパイアに興味をもった世代にも観てほしい。映画の深みにはまってほしい。夢幻とリアルの境界、少女と少年の境界、ヴァンパイアとヒトの境界に広がる、デリケートで気品があって、怖いような美しさのある映画です。

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*1:コメントでハイミーさんの指摘を受け、レスしてからひと眠りした後に若干のリサーチもし、わたしが観たものがすでに修正の施されている可能性が高いことに気づきました。そうならば、わたしが観たフィルムは、ボカシでもスクラッチでもなく、「黒塗り」されていたことになります。しかも、かつての『時計じかけのオレンジ』(S・キューブリック監督)や『殺しの烙印』(鈴木清順監督)のような明快に修正とわかる黒塗りではなく、一見してわからない黒塗り。いや、それに気づかないわたしの眼がいい加減だったのか。フィルムもわたしも、すでに「抑圧」されていた、ってことになるのかもしれません。