身すぎ世すぎ。

映画、演劇、HELLOが3本柱の雑感×考察

悪人  深津絵里 感想

  • この秋の公開作で、ここから見知らぬどこかへと針を振り切る手応えのあった日本映画は、新人女優・寉岡萌希のみなし児の輝きに目を奪われる瀬々敬久監督4時間38分のサーガ『ヘブンズ ストーリー』、本谷有希子の演劇と富永昌敬の映画が変種のセックス・ウォー(性戦争)コメディとして奇天烈にスパークする『乱暴と待機』、監督・石井隆の妖しい夜が帰ってきてくれた『ヌードの夜 愛は惜しみなく奪う』。そして『悪人』だ。モントリオール国際映画祭はもともと日本映画びいきで、なんでこんな映画に賞を? なんてこともたびたびあるのだが、今回の深津絵里の主演女優賞受賞は素直にうれしい。いよいよ今日が初日です。あいにく時間がないので、以下、ごく簡単に。
  • 吉田修一の原作小説『悪人』は、このゼロ年代に出た日本の小説のなかで、阿部和重の『シンセミア』や町田康の『告白』*1 なんかに比肩する指折りの傑作だと思う。『フラガール』で脚光を浴びた李相日監督は決して「巧い」監督ではなく、そのくせ映画を行儀よくまとめちゃおうというところがあるので、映画化は正直あまり期待していなかった。実際、そこまで流麗に、情に訴えるように描かなくても、と言いたくなるシーン(警察前で自首を迷う雨のシーンとか)も、ひたすら品よく綺麗な久石譲の音楽への異和感とともに散見した。でも、そんな雑ぱくな感想は、祐一と深津絵里の光代の逃避行がたどりつく灯台のシークエンスに至ってどうでもよくなった。演出家と演技者の互いを引き絞った共犯関係がそこにあった。土木作業に出かけるオープニングで、田舎町に埋もれ、いじけ、内攻した悪人ヅラとして登場し、そこから灯台のクライマックスへと徐々にその仮面を脱ぎ捨てて最後の最後に無垢な笑みだけが残る、という「悪人」祐一の映画での造型は、なるほど妻夫木聡が演じてこそだと感嘆した。その祐一に身をなげうつ光代のように、からだの芯までなげうって映画に献身する深津絵里には、なおさらに胸を揺さぶられた。
  • 地方のありきたりな紳士服量販店に光代は勤めている。男っ気はさらさらない。目一杯かっこつけた田舎男の足元にしゃがみ込んで採寸し、お似合いだと誉めたスーツを、恋人らしきバカ女にあっさり却下されたりする。真面目だけど目立たない。妹に心配がられるほど華やぎがない。深津絵里は女優としてのオーラを消してこれを演じ、すーっと役にはまっている。そんな光代が、田舎町の閉塞感にあらがうように祐一に溺れてゆく。殺人者であれ、大切なひとのために必死になる。それが、余裕のあるていで必死な愚か者をへらへら見下す「世間」にそむくことになる。「世間」をどこかで体現しているもうひとりのシニカルな殺人容疑者・圭吾*2 と光代は鮮やかな対照をなし、目立たなかったその存在は底光りをはじめる。光代を共犯者にしないためだろうか、警察が乗りこんでくる前に祐一は彼女の首を絞めようとする。すべてのエピソードが灯台のシークエンスに向けてなだれ込む構成だが、光代の肉体に向けて、物語が堰を切って流れこんでくる感じがする。祐一を包容し、物語を包容する光代=深津絵里には、地の果ての灯台を抱きとめる海の響きと匂いが宿っていた。*3

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*1:今夏話題を呼んだ映画『告白』の原作とは別物。ちなみに、中島哲也監督の映画『告白』は、原作となる湊かなえの同名ベストセラー小説を間口においても奥行きにおいても超えて見せた好例だと思います。あくまでわたしの見立てですが。

*2:岡田将生。ちっぽけな奴をアクチュアルに、本質を射ぬくように演じて彼も素晴らしい。

*3:祐一の育ての母であり、「健康」幻想を売る松尾スズキの詐欺師になけなしの蓄えを食い物にされた上、マスコミにまで食い物にされる房江役の樹木希林をはじめ、脇役たちも心に残ります。