身すぎ世すぎ。

映画、演劇、HELLOが3本柱の雑感×考察

今がいつかになる前に 寄り道的感想

  • 10月最後の週のはじめ、不規則生活と突然の寒気がたたって体が悲鳴を上げ、夜中から明け方まで七転八倒して行きつけの医院に駆けこむ。こんなこと繰り返してたら即入院だな、と老医に静かな口調で恫喝される。目前の仕事の山場を青息吐息で乗り切って、金曜の夜、六本木で『マイ・オンリー・サンシャイン』を観る。3年前、同じ東京国際映画祭でたまたま入った『時間と風』のフォークロア的豊穣さにぶったまげ、気にかけていたトルコの天才肌の監督レハ・エルデム。今年はこれだけは観ようという決め打ちだが、これが世界と素手で向きあう孤独で過激な少女映画の傑作だった。怒濤の1週間に対して、なんだか救われた気分になる。翌朝、また老医の脅しを聞きにいったその足で京橋のフィルムセンターへ。十数年ぶりに吉田喜重監督の『秋津温泉』を観る。いつだったか、結婚をひかえた仕事仲間に「どっかの場末の温泉場で野垂れ死にしそうなのは俺の回りでおまえだけになった、期待してるよ、俺はもう無茶できないけど」と、ミョーな励ましを受けたことがある。わたしは『秋津温泉』を連想してそういうのもありかな、って満更でもなかったのだが、なんとまぁナルシス坊やみたいな見方をしていたのか! と鑑賞後の胸の昂ぶりとともに思い知らされる。無頼を気取ったダメ男を批評的に照り返す悲劇のヒロインとして、圧倒的に輝いていた岡田茉莉子さんが、その後の講演で『秋日和』の小津安二郎監督の想い出に触れたとき、小津さんが映画を介してつなぐ父娘――ともに悲劇も喜劇もこなせた岡田時彦(夭折の名優)と茉莉子の血脈を思って泣きそうになる。
  • 今日はこれで充分と思った。体力的な自信もまだなかった。もう帰ろう。でも、足は池袋に向いていた。澄みわたった夕映えが似合う『三億円少女』の舞台に笑いとなごみの風を吹かせたあのかりんちゃんこと宮本佳林と、夏の汐留ライブ以来、がらっぱちな物言いと「夕映え少女」みたいな風情の落差でエッグの彗星となった工藤遥が共演する。それもチラシを見るかぎり主役級の扱い。せっかく初日のチケットを手に入れたのだ。コートを着てこなかったことを後悔するほど、氷のような雨が横なぐりに吹きつけてくる。台風の接近とこの冷気はまったく結びつかない。数日前、体が悲鳴を上げたときのことが蘇ってくる。シアターグリーン BIG TREEは見やすくて好きな劇場だが、椅子の間隔が手狭なうえ、逆に見れば舞台から客席の小空間全体がつつぬけのようで退散の自由がない。そんな逃げ場のない不安を胸に、劇ははじまった。
  • 教室の後方廊下側の角が客席に迫りだすナナメの構図。シューマンの『子供の情景』に導かれる一幕一場、人気の消えた放課後から夕刻の下校リミットまでの「今がいつかになる前」の物語だ。もっとも奥まった窓側の隅っこで、6年1組担任の女性教師・栞が居残って書き物をしている。窓外から女子たちの騒ぐ声。窓外には中庭のウサギ小屋があり、それに面して渡り廊下があるらしく、無邪気と不穏が入り交じったような「ウサギを吊す」騒動がにわかに持ち上がる。その渦から弾きだされてまたひとりになり、栞は白墨で黒板に「今がいつかに」と、映画のタイトルみたいに大書して消す。そんなプロローグだったろうか。「いつか」とは汎用性の高い言葉だ。「いつか会えますように」と未来を指示するかと思えば、「いつかどこかで起こったこと」みたいに過去を指示して使われもする。まるで、過去とも未来ともつかない「いつか」の海に「今」が不安げに漂っている感じがする。
  • 子どものころ、教室の時計の針の音をききながら、時間よ、もっと早く過ぎてくれ! と祈っていた。でも、時の歩みはのろかった。早く大人になりたかった。いま、時はあっという間に過ぎてゆく。仕事はもう年末進行に突入している。今がいつかに――その時の流れに逆らって、過ぎ去った「今」をしばし繋ぎとめるためにこんな文章を書いている。大人はなんやかやいって楽しいことがいろいろある。イヤなら方向転換することだって、逃げだすことだってできる。でも、子供には逃げ場がないんだ。教職に自信がなくて辞表を書いていた栞にそう反駁したのは、おどおど頼りなさげな春山先生だったっけ。ほかにやることがなくて教師になった。毎日のように、もうやめようと思う。でも、いまやめたら、怒った顔のままもうあの子に会えなくなってしまう。背中を向けたまま、もうこの子に会えなくなってしまう。そう思うとやめられなくなると、春山は栞の胸に届くことを言う。今日は保護者参観の日、最後まで穏便に、を至上命令とする大人たちの会話劇は、「今」を「いつか」に追いやろうとして教室の空気を淀ませるばかりだ。いちばん「今」と向きあおうとしているのが、熱血教師・土屋のただの子分に見えた春山先生だったという劇的反転力。わたしはてっきり、この淀みを反転させるのは澄んだ眼の目撃者、仙石みなみ演じる実習生・麻里と思っていたのだが。
  • 大人たちの淀んだ関係は一皮むくと、それがひっくり返っちゃうような動的側面が見えてくる。大人は「かつての子供」なのだから、子供たちだっていっしょ。「逃げるな」と大人は教えるけれど、子供たちには大人より逃げ場がなくて、もっとずっと不安なんじゃないか、と脚本・坪田文、演出・深寅芥の劇は問いかけてくる。大人にはしっかり者のいい子に見える未来(宮本佳林)をリーダーに沙良(竹内朱莉)と彩乃(高木沙友希)がいて、その支配圏に表向きは仲良しの百花(土方穂乃花)がウサギのように手なずけられている。という子供たちの淀んだ関係も一皮むくと、それがひっくり返っちゃうような動的側面が見えてくる。沙良には沙良の負い目があって未来と距離を置こうとしている。未来はハブられる予感をやり過ごしている。子供たちはいわば生き急ぐように「いつかの大人」を演じている。その淀みに風穴を開けるのが、間違ってることは間違ってる、と正しく怒れる包帯少女・叶多だ。いままで喧嘩には負けたことがないという彗星・工藤遙に叶多役をふるのは慧眼というほかない。まさに片脚に傷を負った痩身の一匹狼、という風情。牙をむかれて相対する宮本佳林の未来はキツネザルみたいな教室のボス猿か。まるで自分の危うい立ち位置を「強いは強くない」というように、未来は直情的な正義漢・叶多に「正しいは正しくない」という逆説を投げかける。冷めた強がりの表情の裂け目から、かつて孤立していたころの怯えをほの浮かべながら。巧拙を超えた迫真のクライマックス。春から秋の間に猛烈な勢いで舞台を渡り歩いてきた宮本佳林に、この難役をふりあてた空間ゼリー本公演のつくり手も、一見損な役回りに、損して得とってみせた佳林ちゃんも素晴らしい。小学6年生の女の子が一様に可愛くてけなげなはずもない、という地点で勝負している。
  • ここまで意識的に「いじめ」という言葉を使わずにきた。「いじめ」というのは奇妙な言葉だ。当事者の子供にも管理責任を問われる大人にも「いじめ」は存在しない。言葉が一人歩きしたとたん大ごとになってしまうから。「いじめ」とふざけっこの境界が受け身の側の「イヤ」という気持ちにあるとしても、なおその境目はあいまいだ。いじめられるのはイヤ、けれど「いじめられっ子」というレッテルもひとりぼっちになるのもイヤで、百花は「いじめ」を認めない。「いじめ」が語られるのは、決まってそれが自殺や暴行致死にいたって社会問題化する事後のことだ。むかし俺はいじめられっ子だった、と改めて告白したところで、それは距離を置いた逃げ場のある地点だからこそ。「いじめ」という言葉が子供の問題に特化して使われるようになったのもそう古くなく、たしか高度成長が飽和した後のことだ。以来、「いじめ」と言ったとたん問題の所在が後からわかった気になるだけで、「今」に向けてはその同語反復が空しく響くばかり……。肉親を亡くして「死」を身近に生きてしまった叶多は、ずかずかと教室に入るや「死」をもてあそぶクラスメートに食ってかかる。ウサギは死ぬ存在なんだと。森の暗がりの彼方に呼び寄せられる狼少女みたいに、「いじめ」と名指される一歩手前の「今」の暗がりの本質をひといきに射ぬいてしまう、叶多みたいな子供ってきっといると思う。*1 叶多の悲しみと未来の悲しみがそっと手をつなぐ。今この一瞬が震えている。【10月30日(土)初日PM6:30 池袋シアターグリーンBIG TREEにて】

_____

*1:「いじめ」という固定的な名詞と「いじめる」という動的な動詞の間には大きな段差がある、ような気がする。