身すぎ世すぎ。

映画、演劇、HELLOが3本柱の雑感×考察

2010年BEST5 日本映画 文芸篇

  • バブリーな日本映画は大丈夫? と耳にして久しいが、原作や作者自身の知名度、TVの高視聴率にのっかっただけの、一過性のスカスカなしろものがメジャー作品に多いというにすぎない。シネコンの興行を独り占めする山の頂きと、山裾に二極化していて、一方が見えにくくなっているだけ。ミニシアターが一時の勢いを失った困難な状況下、裾野に目を移せばそこもたしかに石ころだらけだが、一見いびつな宝石が幾つも埋もれている。今年はとくにそれを感じた。〈文芸篇〉としたのはあくまで便宜的なもの。映画が文学に依存しているいわゆる「文芸映画」には興味がない。ここにあげたのは、異なる表現媒体として映画と原作小説が拮抗しあい、刺激しあう関係にあるものだ。ランキングはつけられないので順不同です。〈青春篇〉〈女のコメディ篇〉と続く予定。

アブラクサスの祭

  • 自身僧侶である玄侑宗久の小説は、躁と鬱を往き来する悩み多い浄念さんの新境地が、パンクロッカーだった学生時代から出家にいたる彼のひととなりを通して語られる。スネオヘアーの肉体を得た映画はもっとフィジカルなアプローチで、お坊さんの生活空間を丹念に積み上げながら、新たなライブの準備にいそしむ浄念の試練を可笑しみを交えて現在形で描きだす。浄念さんにとってかつての死地だった海と対決するようなギター・セッションや、月夜のお寺ライブの爆発力が素晴らしい。生きることのノイズと映画のノイズが切り結ぶたった一度の時間。加藤直輝監督という若い才能の名はちゃんと覚えておこう。2010年の暮れも迫ったクリスマス12月25日に公開。

人間失格

  • 太宰治の「人間失格」を映画にするという無謀な試み。まぁたいていは、甘えん坊のおぼっちゃんのいい気な女遍歴、で終わるのがオチだろう。ところが、この映画の生田斗真演じる葉蔵はかげろうみたいな存在で、彼の黄昏の炎に照らされた女たちのほうがそれぞれの匂いをおびて観ているこちらに迫りだしてくる。女優の映画なのだ。一言も台詞を発しないままこの女となら心中もしよう、結婚もしようと思わせる、カフェの女給・常子役の寺島しのぶとタバコ屋の娘・良子役の石原さとみ。葉蔵に処女をささげて結婚した良子が、生活のため姑息な男に身を任せて放心し、亭主・葉蔵の脇にたたずんで夕景を見る。それを石原さとみの姿態の崩れでみせる荒戸源一郎の「静」の演出。葉蔵の父の代から屋敷に仕えた下女・鉄を演じた三田佳子の、グロテスクすれすれの老いの妖気にも感嘆。

海炭市叙景

  • 村上春樹と年齢が同じ佐藤泰志の小説は、春を待つ冬の第1章9篇と、徐々に夏の気配をおびる春の第2章9篇からなる。不遇のまま死を選び、この短篇連作が絶筆となった。後段ほど筆が充実している。惜しい。少なくとも映画は、名手リー・ピンビンの撮影だけが無駄に綺麗な『ノルウェーの森』よりはるかに出来がいい。18篇中5篇を選び、函館をモデルにした地方都市の無名者たちの群像劇として束ねられている。雲間から天啓のように響くジム・オルークの音楽。わたしがもっとも惹かれたのは第一話「まだ若い廃墟」で、年越しを待たずに造船所をリストラされた兄のお伴の初日の出、谷村美月の妹が人々と「おめでとう」を交わしあうシーンがうるわしい。兄妹の暗澹が一瞬の神々しさにくるまれる。痛切。原作ではこのお話が冬篇全篇に影を落とすことになる。熊切和嘉監督のこれまでの作品歴のなかでこれがいちばん好き。公開中。

パレード

  • この2LDKの部屋はお互いの聖域に踏みこまないかぎり、出入り自由。昼メロ役者と不倫中の琴美(貫地谷しおり)がいて、深酒ぎみのイラストレイター未来(香里奈)がいて、ジョギングを趣味とする独立系映画会社勤務の直輝(藤原竜也)がいて……。通り魔殺人事件の頻発に合わせ、林遺都が蠱惑的に演じる美形の男娼が闖入することをきっかけに、そのおもしろおかしい共同生活に裂け目が生まれる。嫌ならいつでもリセットしていいゆるーくうすーい日常のつながりから、ミステリー仕立てでほの浮かぶどんでん返しの夜の深さ。存在の耐えられない軽さ。章ごとに語り手が異なる吉田修一の一人称小説も戦慄的な終局を迎えるが、吉田原作と相性のいい行定勲監督の映画は窓外に広がる「黒」に背筋がゾクッとする。

悪人

  • これも吉田修一の小説が原作。李相日監督との共同脚本は祐一と光代の逃避行の最果て、灯台のクライマックスにすべてのエピソード、すべてのエモーションがなだれを打つように、悠々たるペースの長篇を組み立て直したもので、これが功を奏したと思う。どんよりとした悪人顔の垢がぬけ、夕陽を浴びて無垢の相が立ち現れる妻夫木聡、男っ気のないぢみーな女の下り坂が、世間に背く捨て身の愛によって内から光を帯びてゆく深津絵里、ともに素敵。映画づくりにおいて監督と役者が共犯関係を結び、「最果て」の行き着くところまで行こうという意志の宿りに、物語内容と演出手法の分かちがたい結びつきがうかがえる。余裕ぶっこいて必死な他人を見下すマザコン大学生・増尾というきわめて凡庸な、それゆえにアクチュアリティのある「悪」の存在が観終えた後もやけに尾を引く。負に徹した岡田将生の役者根性にも拍手を。メジャー系で気を吐いた一作。過去稿は《こちら》

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