身すぎ世すぎ。

映画、演劇、HELLOが3本柱の雑感×考察

2010年BEST5 外国映画 夢とうつつ篇

  • アート映画の興行の退潮が止まんないよね、と春先によく聞いた。意欲的だった独立系配給会社が昨年あたりから幾つもつぶれ、あるいは失速した。「エンターテインメント」万能の世か。アートアートと浮かれてるより、すぐれたエンターテインメントが評価されるならそれもいいのだが、ほとんどが看板倒れなんだから。かつて、なんでもかんでも「娯楽巨篇」と呼んだのとちっとも変わらない。「エンターテインメント」という言葉はいまや飽和状態なほどなのに、「エンターティナー」という言葉はいまだに定着しない。エンターティナーなきエンターテインメント。「アーティスト」なら芸能界にいっぱいいるのに。なんかヘン。そもそも、映画にアートかエンターテインメントか、なんて二分法はそぐわない。映画の可能性を見えなくするだけ。年が明けて公開されるデヴィッド・フィンチャーの『ソーシャル・ネットワーク』やクリント・イーストウッドの『ヒアアフター』やウェス・アンダーソンの『ファンタスティックMr.FOX』は、アートにもエンターテインメントにも還元できない。職人として腕を磨きながらその域を超える傑作を撮ってしまった監督なら、映画百余年の歴史のなかで次々に挙げることができる。アート映画はもうダメ、これからはエンターテインメントの時代、なんて枠づけ方自体が不毛だと思う。「アート映画」と箔をつけても実は玉石混淆、品質は保証されません、というだけのこと。嗅覚を働かせもせずに切り捨てて、埋もれた至宝までを取り逃したくはない。

シルビアのいる街で

  • 「追っかけ」と「視線」と「物音」。ドラマティックなことは何も起こらないが、それだけのスリルに魅せられてしまう。映画のエッセンスを素速く射ぬいてことこと煮つめたみたい。ドイツ国境近くのフランスの古都ストラスブール、主人公はスペインの青年画家で、6年前の旅の途上に画帳を交換した同世代の美女シルビアが忘れられず、彼女のまぼろしを追ってレトロな建造物に囲まれたこの街をひたすらさすらう。再訪の3日間の寄る辺ない旅。おそらく、追いかけた相手は人違いだった、というだけのお話なのね。けれど、瞳をさまよわせてオープン・カフェでくつろぐ女たちを画帳にスケッチしていると、店のウインドウに不意打ちのように映った鏡像にシルビアの面影を見つけ、あわててその跡をつけるシーンなんて、すれ違ったりふと絡みあったりする視線や、スケッチ帳ををめくる風や、グラスに注がれグラスからこぼれる液体の揺らめきやらが、ある豊穣な拡がり、充足と懊悩をもってスクリーンから吹きこぼれるようなのだ。街を走るモダンな市電の、車窓から射しこむ光や流れる風景を生かしたシーンも圧巻だ。ホセ・ルイス・ゲリン監督は、『ミツバチのささやき』のヴィクトル・エリセがわが後継者のように期する畏るべき才能。秋の東京国際映画祭で観ることができた、『シルビア…』を携えてのゲリンの映画祭・旅日記『ゲスト』も大収穫だった。

エリックを探して

  • 名監督が大作や意欲作に心血を注いでげっそりしちゃった後、ふっと肩の力がぬけて小ぶりで温もりのある逸品を撮ってしまうことがよくあるけれど、『麦の穂をゆらす風』『この自由な世界で』とヘヴィな作品が続いたケン・ローチの新作もその好例といえる。前2作に比して、なに、このハッピーなまでのほがらかさは。元マンチェスター・ユナイテッドエリック・カントナが本人役で出ていて、これが笑える。映画ファンとサッカー・ファンの両方にお勧めしたくなる。別れた妻の連れ子を抱えて何をやっても上手くいかず、まぁオレの人生こんなもんか、と投げかけてるマンチェスターの郵便配達人の家に、カントナがふらっと現れる。彼にとってカントナは神様で、壁にポスターが貼ってある。それに語りかける男の背後に……まぼろしのはずなんだがまぼろしと言いきれない、のたっと人を食った現れ方がなんともいい。これをファンタジーと言い切ってしまうのはつまらない。現実とは別次元の、映画という虚実ふくんだリアルの形式。カントナの導きで冴えないおっさんが先妻とよりを戻そうと奮闘するお話なのだが、「クソな人生を忘れさせてくれる美しいシュート」をめぐるカントナとのサッカー談義とか、連れ子がハマリかけた地元ギャングのアジトへの痛快無比な殴り込みとか、見どころ満載。ちなみにイングランド地方都市のサッカーの根づき方を描いてローチの右に出るひとはいない。公開中。

バッド・ルーテナント

  • ニュー・ジャーマン・シネマのヘルツォークの映画は最初期の『小人の饗宴』を除いてどうも苦手だったが、アメリカに渡って撮ったこの新作は問答無用の面白さがあった。ニコラス・ケイジ、刑事役で狂い咲いています。ハリケーンカトリーナ一過、南部ニューオーリンズのけだるいムードのなか、犯罪を根こそぎにする豪腕とはうらはらに、ドラッグだろうが賄賂だろうが八百長賭博だろうがなんにでも手を染める。しかも、因果応報、どんどん堕ちてゆくふうに見えて、飄々と上昇気流にのっかっちゃう。嵐の後の珍事みたいに、マイナスの札がみるみるうちにプラスに転じてしまう。元ネタのアベルフェラーラ監督版の刑事(ハーヴェイ・カイテル)は罪を悔いて魂の救いを求めちゃう悲劇性が際だってたように記憶しているが、こっちはもう呆気にとられて笑うしかない衝撃、笑劇。しかも、このサイアクの刑事、背中にみょーな哀愁がある。最高だ。映画俳優として演技設計の針を振り切り、焼き切ったニコラス・ケイジ。本気に狂うとこのひとはすごいね。

ソフィアの夜明け

  • ソフィアというのは女性名ではなく、ブルガリアの首都の名前。ブルガリアのことなんて、ヨーグルトと大関琴欧洲でしか知らなかったが、ブルガリアの新しい波を感じる秀作だった。てっきり映画不毛の国と早とちりしていた自分に恥じ入る。東西冷戦が終わり、ようやく近代化へと舵を切ろうとする首都ソフィアの「夜明け前」の物語。目標も倫理意識も見失って、主人公の木工技師は世の中の流れから迷子になる。父親世代との断絶があって、閉鎖的な社会への違和感があって。なんか日本の高度経済成長期にも通じる都市のきしみが、ヒリッとした痛みを伴って伝わってくる。やっと見つけたトルコ生まれの恋人が民族的偏狭さに打ちのめされて帰国することになり、主人公がついには世の流れどころか物語からも迷子になる。朝まだきの街をさまよううち、不思議なおじいさんと出会って彼の部屋でうたた寝する夢のようなエピソードに深く感じ入った。主人公が起き出すと、おじいさんは赤子に変わっているの。たしかグレン・グールドが鼻唄交じりにピアノを弾くバッハの「ゴールドベルク変奏曲」がその迷走=瞑想のお伴で、カメラワークにも荒々しくも繊細な脈動感があった。心が震えた。

ナイト&デイ

  • 今年はハリウッド映画が総じて不作だった。もしかして、とんでもない掘り出し物を観逃しているだけなのか、って少し不安になる。『キック・アス』には《こちら》で触れたばかりなので、えいっ、とこれを挙げることにする。きっとノーマークのひとが多いだろう。監督は、『17歳のカルテ』で無名だったアンジェリーナ・ジョリーにアカデミー助演女優賞をもたらし、リメイクながら『3時10分、決断のとき』というめっぽう面白い異色ウェスタンを前作で撮ってるジェームズ・マンゴールド。お姉さんの結婚準備に、カンサス育ちの田舎娘がボストンへ飛ぶ。その行きの空港で、颯爽としてるのにやけに愛嬌のある紳士と2度までもぶつかる。この伊達男がトム・クルーズで、田舎女がキャメロン・ディアス。謎をはらんだこの導入部がまず快調だ。これは運命かもって機内ロマンスを夢想し飛行機のトイレで女がうきうき化粧直しをする間、キャビンでは銃撃戦がおっぱじまってパイロットが流れ弾を受け即死しちゃう。甘い恋の予感から絶体絶命の事態に下降して、飛行機も急降下するという、「落差」が呼び起こすコメディの連動ぶり。こんなワザのある演出が好き。かなりいい加減でご都合主義なスパイ戦の物語内容は、実のところどうでもよい。跳躍的な画面転換の妙、牛の暴走×バイクのアクションの切れ。いったい彼は裏切り者か救いの神か。判断不能なまま、トム・クルーズという「野蛮な王子様」にさらわれてこっぴどい目に遭うキャメロン・ディアスの被虐的なコメディエンヌぶりが楽しい。「眠り」や「着替え」の反復を介し、トム・クルーズにひと泡吹かせる反転攻勢にもニヤッとできる。こういう荒唐無稽ななかに潜む大人の稚気と余裕って、日本じゃずっと軽んじられがちだけど、アメリカでもいまやあまり受けないんじゃ? せちがらくなった。ただ正直にいうと、もうちょっとトウがたつ前のキャメロン・ディアスで観たかったな。

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